2021年10月1日 第273話 |
||||
身心放下 | ||||
学道の人身心を放下して一向に仏法に入るべし 正法眼蔵随聞記 |
||||
生きる意味とは 地球には870万種もの生きものが存在しているといわれているが、そのうち90%がまだ発見ないし分類されていないそうです。膨大な生きものが存在しているけれど、動物も植物も、微生物も、それぞれの生きものにそなわった種を絶やさないという本能によって生かされているのであって、生きる意味を考えるという生きものは人間だけでしょう。 生きる意味が感じられることを生き甲斐というならば、生き甲斐を感じて、また生き甲斐を求めて、そして、生き甲斐とは何かを問うて生きている生きものは人間だけだということです。なぜならば人間だけが、生まれてそして死んでいくということを認識しているからです。 コロナ禍で人々は不安とともに日々を暮らしています。ワクチン接種がすすみ、少しずつ安心感が持てるようになってきましたが、変種のコロナウイルスが発生していることから、人々の不安は解消されません。そんな時勢ですから、生きる意味を見失って、精神的に落ち込んでしまう人たちが多いようです。ここ数年減少傾向にあった日本人の自死数が増加している。とりわけ、女性や若者にその傾向がみられます。 幸せを求め、幸せに生きたいから人は生き甲斐探しをするのでしょう。だが自分にとっての生き甲斐とは何なのかがなかなか見つからない、生き甲斐に出会えない、そんな思いを持つ人も多いことでしょう。 生まれてから死ぬまで、自分はどのように生きるかを考える生きものは人間だけです。ですから生きる意味を見失ってしまうと、生きていくのがつらくて苦しいと感じるのです。 |
||||
生き甲斐とは 生き甲斐とは何なのか、それは自分だけのことなのか、他の人や社会との関わりにおいてということなのか、宇宙真理のような崇高なものに触れるということでしょうか。それは永遠に追い求める課題のようなもので、終わりのないものであって、一生をかけて自叙伝を書くようなものでしょうか。 生き甲斐とは、生きる価値や意味を見出し生きる喜びを感じるということで、その源泉とか対象になる事物をいうのでしょう。それは、自分の行いそのものが生き甲斐であるということもあるでしょう。社会や他の人との関わりによることすなわち、社会的な生き甲斐というものもある。それらは年齢によっても、また生活環境によっても異なるでしょう。 仕事そのものが生き甲斐であるという人もあるでしょう。趣味、読書、習いごと、自然とのふれあい、スポーツ、そしてボランテイアとか社会参加に喜びを感じる人もあるでしょう。達成感や充実感が味わえれば生き甲斐が実感できるというものです。恋愛はお互いの存在がよろこびであり、相手が存在することが生き甲斐そのものです。 生き甲斐とは、生きることに価値や意味をもたらすもので、その一つは源泉や対象そのものであり、その二つはその源泉や対象が存在することにより、自らの生に価値や意味があると感じられることです。この二つから構成される概念を生き甲斐というのでしょう。 生き甲斐を感じなくても生きていけるでしょうが、生き甲斐を感じることで満たされた気持ちになれるから、生き甲斐が感じられないと日々の生活が無味乾燥なものになるでしょう。 |
||||
生き甲斐の実感とは 人は棺桶に収められるときには、すでに自分を意識することが無くなっている。自己の死を自分で意識できないのであれば、目を閉じ、呼吸を止めるちょっと手前で、この世に生きてきて良かったと、そう思えるようでなければ、生きてきた甲斐がない、すなわち生き甲斐を感じることなく一生を終えたということになってしまいます。 だが自分の終焉は予測しがたいもので、病気で苦痛を感じながらも少しの時間があれば心の準備も身辺整理もできますが、突然の死を否定できないのです。したがって、その突然がいつ到来しても悔いを残すことなくありたいものです。そのためには只今を生きる、いつでも今が出発点でなければならないのでしょう。 人間である限り生き甲斐とは、自己一人の自己満足ということでもなさそうです。やはり人間だから、他の人との関わりや、社会とのつながりにおいて生き甲斐が感じられる。それが本当の生き甲斐を感じるということでしょう。オリンピック、パラリンピックの選手たちが異口同音に、多くの方々のおかげで選手として活躍できたことを「ありがとう」の言葉で表現されていましたが、そういうことでしょう。 人間であるということは、他と共に生きるということですから、他と共に、他のために生きてきたという証しを残しておきたいものです。世間で評価されるような功績や、財産を残せなかったとしても、他と共に生きてきたという印象だけでも残しておきたい。それは、自分が他から必要とされることであり、他から感謝されることであり、他から尊敬されること、この三つが揃えば人は生き甲斐を実感するでしょう。 |
||||
仏が仏らしく生きるところに生き甲斐がついてくる マズローの法則というのがあります。人間の欲求は五段階のピラミッドのように構成されているとする心理学理論です。 人間の欲求を段階的に表せば、「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求(所属と愛の欲求)」「承認欲求」「自己実現の欲求」の順となる。そしてさらにこれを超える高次元の段階があり「自己超越の欲求」とよばれています。それは真理すなわち法をもとめるという欲求であり、真理に証される生き方であるといえるでしょう。 生き甲斐とは、生きることに価値や意味をもたらすもので、その一つは源泉や対象そのものであり、その二つはその源泉や対象が存在することにより、自らの生に価値や意味があると感じられることです。マズローの人間の欲求をあてはめると、その一つに該当するものが「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求(所属と愛の欲求)」であり、その二つが「承認欲求」「自己実現の欲求」であり「自己超越の欲求」ということでしょう。 禅語に「百尺の竿頭に一歩をすすむべし」とありますが、百尺の竿の先で一歩をすすめたら落ちてしまう。それで竿頭にしがみつき、強く執着しょうとするこころが残る。そのこころをも投げ捨て、ただひたすら仏道をまなぶべしということで、これは「自己実現の欲求」です。また百尺の竿の先端をさらに一歩すすめると、十方世界は真実そのものだから、学道の人は身心を放下して一歩をすすめるべしということで、これは「自己超越の欲求」でしょう。 道元禅師が弟子の懐奘に説いたことが記された正法眼蔵随聞記に「学道の人身心を放下して一向に仏法に入るべし」と、また「学人第一の用心は先ず我見を離るべし」とあります。我ありと執着するこころをすてる。すなわち、何ごとにおいても我見という人間のあらゆるとらわれの立場を抜本的にすて、ひたすら仏法の中に身を置くことが身心放下です。 人はそのまま仏であるから、真理を求めることに生きる意味を定めておれば、自分にそなわる真実の自己・仏性が現実としてあらわれる。すなわち真実人体である真骨頂が発露するのです。自己は本来仏であるという自覚のもとに、仏が仏らしく生きるところに生き甲斐がついてくるということでしょう。 |
||||
|