2022年1月1日 第276話
             
時光可惜

   生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり、
  生死の中に仏あれば生死なし、ただ生死すなはち涅槃と
  こころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねが
  ふべきもなし、このときはじめて生死をはなるる分あり、
  唯一大事因縁として究尽すべし。  
 修証義


めでたさも 中くらいなり おらが春
  小林一茶


 人は一生さまざまな悩みをかかえながら生きていかねばなりません。人間関係の悩み、親子の悩み、夫婦の悩み、子育ての悩み、男女の悩み、お金の悩み、病の悩み、老いの悩みなどなど、生きている限り悩みや苦しみは尽きることがありません。一つの悩みがなくなっても、また新たな悩みが生まれます。欲が絡んでくるとますます悩みは深刻なものになってしまいます。

 さまざまな悩み苦しみがあるけれど、究極の悩みとは、なぜ死んでゆくのかという疑問であり恐怖です。自分もやがては死ぬということを自覚していますが、それがいつなのかわからないから、日常は死を忘れて、死を思うことなく暮らしています。死の恐怖をのがれることはできないけれど、病気や差し迫った危険を感じなければ欲望に身をゆだねてしまいます。人には、色欲、食欲、睡欲、名欲、利欲の五欲があり、いずれも自制し難いのです。

 大草原に群れをなしている動物や、群がり飛んでいる鳥は新しく誕生したものが加わる一方で、老いたり病んだりしたものは、そこから抜け落ちます。自然界での死は他の生物の生となる命のつながりだから、死はごく自然なものといえるでしょう。

 どの生きものも命を後世につなぐために生まれてきたから、命をつなぐという流れのなかに存在しています。それぞれの種を残すということは競争であり共生でもあるのです。それで、生きものは本能として死の恐怖を感じると危険から逃れようとします。人間も同じですが、死を認識する生きものは人間だけでしょう。コロナ禍の新春ですから、めでたさも中ぐらいかもしれません。

生きるるを死ぬる始めと我は知る、始め有る身の終らましやは
                              仙涯義梵

 元気な人でも55歳、2万日生きてくると老いを感じるようになります。でも長寿の時代ですから、死はまだまだ先だと思ってしまうが、自分はあと何年生きられるだろうかなどと、ふと思うようになるのです。
 またこの先、事件や事故、災害に遭遇しないか、コロナに感染しないだろうかなどと、自分の死につながる不安を思うこともあるでしょう。

 なぜ生まれてきたのか、なぜ老いるのか、なぜ病むのか、なぜ死ななきゃならぬのか、そういうことをいくら考えてみたところでわからないことばかりです。生老病死は一切皆苦であるというけれど、生きていかねばならないのです。死とはどういうことなのか、自分に問いかけてもわかりません。

 生きていくには苦がともなうでしょう。それで、この世で生きていくからには苦とつきあっていかなければならないと思う人、苦を遠ざけたいと思う人、耐え難き苦にギブアップしてしまう人もあります。
 仙涯和尚が死に急ぐ人に「死にに来て死ぬ時ならば死ぬがよし、死にそこなうて死なぬなほよし」と詠んでいます。


 自分もやがては死ぬということを認識していますが、いつ死ぬかそれがわからないから、死のことを忘れたり、思わないようにしています。歳をとると先は短いと思うようになるけれど、それでも目先の欲望に心奪われてしまいます。いろいろな悩みや苦しみがあるけれど、根本のところは生まれたら死んでいくという流れの中に、今、生きているということでしょう。

生まれては死ぬるなり、おしなべて釈迦も達磨も猫も杓子も
                              一休宗純

 死はいつおとずれるかわからないから、人は死をそれほど思うことなく日々を暮らしていますが、体の不調を感じて医者から死を宣告されたら自分の死を受入れ難いから、始めはそれを否定しょうとします。そして怒りとともに疑いの気持ちにもなり落ち込んでしまいますが、やがて医療に望みを託して、それを受容して自分の死と冷静に向き合うようになり、残された時間をどのように生きるかを考えるようになるのです。

 一切皆苦というけれど、究極の悩み苦しみは死んでいくということです。老いることや病みの苦しみも、やがては死に至るということで、悩みや苦しみの本命は死です。生まれてきたからにはかならず死にます。お釈迦様は因縁により生を受け、因縁により死ぬといわれました。この世のすべての現象や存在が縁起の理法によるということです。

 人間は身内の者や親しき者の死に直面すると、棺に取りすがって泣きわめきます。悲しいのは人情だけれど二人称の死を見つめているのです。二人称の死は認識できるが自分の死、一人称の死は未体験であり理解できません。

 お釈迦様は人には命分があるといわれました。死を考えるひとときを持ち、常に頭の片隅に命の限界があることを自覚しておくことで人生が意義深いものになりそうです。命に限りがあるから価値があるのです。命の有限に価値を見出すことで、生老病死は苦でありながらも味わいのあるものになるでしょう。
 まだ生きているから書くのだと、そうおっしゃっていた瀬戸内寂聴さんも昨年11月9日に99歳で筆を置かれました。生きているというのは出息入息あるのみです。


岩もあり木の根もあれどさらさらと、たださらさらと水の流るる
                              甲斐和里子

 人は死んで荼毘にふされてお骨になり、骨壺におさめられます。骨壺のお骨はリン酸カルシウムと炭素ですが、埋葬されればやがて水と反応して溶けてしまう、つまり、ゼロになります。生まれる前がゼロだから元のゼロに帰る、新帰元するということです。ゼロから生まれてゼロに帰るのが一生ということでしょう。
 ゼロに帰る先は、ブラックホールのようなところに吸い込まれていくのかもしれません。そこが極楽浄土なのか人は知るよしもありませんが、善き生き方をしたと自負するものも、あるいは、恨まれたり憎まれたりしながら生きてきたものも、そこに吸い込まれて一生が終わるのです。阿弥陀様が極楽浄土に渡してくださる。極楽往生の願いが叶えられることを、後生の一大事というのでしょうが、来世の安楽を願う前に、今生を一大事とすべしということでしょう。

 人間最後に臨んでは地位も名誉も財も妻子も何も頼りになりません。ただ一人黄泉に赴くのみです。命は借り物ですから、借用したものをすべてお返しするだけです。
「雨、霰、雪や氷というけれど、溶ければ同じ谷川の水」です。我執を固持しようが、慢心を誇示して生きようが、そして、どんなに悩み苦しもうとも、命とはしょせん露、泡、雷の如しで、すべからくゼロです。いろいろと悩みや苦しみがあり、善や悪だというけれど、どんな生き方をしようとも、日は東より昇り西に沈みます。人は死んで消え去っても月は東に日は西に、朝ぼらけには明星が輝いています。

 お釈迦様は生死がそのままに涅槃であるといわれました。 涅槃とは悩みや苦しみの根源である煩悩の炎が消えることをいいます。死とともに悩みも苦しみも消滅するから死を涅槃に入るというのでしょう。
 
「応に住するところなくして、しかもそのこころを生ずべし」と、とらわれのこころがあってはならないとお経の文句にありますが、我執を離れられず、慢心を捨てきれずというのが人間でしょう。それで人間は生死に執着します。縁により人は生まれ、因縁により人は死んでいく。苦も楽も、悲しみも喜びも、ことごとくが縁起に由ることから、煩悩まみれの凡夫の認識による分別が迷妄をまねくので、分別の心を離れれば、ことごとく涅槃寂静の中に今、生きているという喜びを識るでしょう。

 「ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり。」
道元禅師は生も一時の位、滅も一時の位、生の時は生のみ、滅の時は滅のみ、厭うこともなく願うこともなしといわれました。
 ゼロから生まれてゼロに帰るのが一生です。その一生をどう生ききるか、これを生死の一大事というのでしょう。甲斐和里子さんが詠まれた「岩もあり木の根もあれどさらさらと、たださらさらと、水の流るる」が如く、今を生きるということでしょう。人に生まれてきたということが最勝の善身を得たことであり、これを最上の喜びとして、いたずらに露命を無常の風にまかせることなく生きることが人生の課題です。時光惜しむべし、光陰むなしくわたることなかれということでしょう。

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