2022年3月1日 第278話 |
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念彼観音力 | ||||
心迷法華転、心悟転法華、究尽能如是、法華転法華 (正法眼蔵法華転法華) 心迷えば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず、 究尽すること能く是の如くなれば、法華、法華を転ず。 |
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世尊妙相具 我今重問彼 仏子何因縁 名為観世音 古代のインドでは素晴らしく尊い教えは文字にせずに、暗記して唱えるというのが一般的でしたから、お釈迦様の教えを書きつづった経典はありませんでした。それでお釈迦様の滅後に比丘たちが集まって、互いの記憶を確認するという結集がおこなわれました。やがて仏教の修行者たちは悟りを目指して自利に専心するものと、利他に励む菩薩の道に進むものとに分かれていきました。後者を大乗というようになり、多くの大乗経典が編纂されました。その一つが法華経です。 法華経とは、蓮華にたとえるべきすばらしい法を説いたお経ということで、鳩摩羅什が妙法蓮華経と訳しました。この法華経の中に観世音菩薩普門品というお経があります。品とは章ということで、法華経の第二十五章ということです。観世音菩薩普門品、略称・観音経には詩(偈)のかたちで説かれた普門品偈があり、よく読誦されています。 悟りを開く前のお釈迦様を菩薩と呼んでいましたが、大乗仏教では全ての人が悟りをひらくことになるから、発心して仏の教えをいただかれるすべての人を菩薩というようになりました。そこで迷える人びとである衆生の側に身を置いて人びとを救う仏として観音菩薩が登場しました。普門とはあらゆる方向に顔を向けた者という意であり、本面のほかに十面をもつ十一面観音はこれをあらわしています。 観世音菩薩普門品は飽くなき求道の志に燃える菩薩である無尽意菩薩が、お釈迦様に観世音菩薩の教えを請うかたちで説かれたもので、観世音菩薩という名前についてたずねるところから始まります。 迷い苦悩する衆生が観音様の御名を唱えると、観音様はその呼びかけに応じていかなる苦しみからも救済してくださる、そのような仏であるとお釈迦様は答えられました。 |
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真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈観 常願常瞻仰 玄奘三蔵は般若心経を訳しました。観音様は観察することが自在であるとして、般若心経では観自在菩薩と訳されています。般若心経には、大いなる智慧(悟)の心をどのように学べばよいかということについて、観自在菩薩がお釈迦様の弟子である舎利弗尊者の問いに答えて、この世の現象はことごとくが空であるとして、お釈迦様の根本の教えである縁起の理法が説かれています。 鳩摩羅什は法華経を訳しました。観音様は衆生の苦しみの声、救いを求める声を観察して救いの手を差しのべるというはたらきをすることから、観音経では観世音菩薩と訳されています。観音経には、観世音菩薩が無尽意菩薩に衆生のさまざまな苦しみをどのようにして救うのかということについて、慈悲の心が説かれています。 菩薩とはサンスクリット語の音訳で菩提薩埵で、菩提は悟り、薩埵は衆生のことであり、両語が結合して悟りをそなえた人びとと、悟りを求める人びとという、二つの意味があります。大乗仏教では菩薩とは自己一人の悟りを求めて修行する人というよりも、悟りをそなえた人として現実社会に存在して、世のため人のために利他行を実践することでこの世の浄化につとめる者のことをいうことから、菩薩は人間の理想像として、生き方のお手本であるとみるべきでしょう。 観音様には五つの観る力があります。真の観、清浄の観、広大なる智慧の観、悲の観及び慈の観です。すなわち、ありのままの真実を観る眼、汚れなく観る眼、広大な智慧すなわち無常とか無我など縁起の理法にもとずいて観る眼、同情し他人を思いやる悲しみと慈しみの共鳴の働きで観る眼、この五観が観音様にそなわっていますから、衆生は常に願い常に仰ぎみるべしということです。 |
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念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙 観音菩薩によって救われたいと祈ることから観音信仰が始まりました。観音菩薩には聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、不空羂索観音、如意輪観音、准胝観音などがあります。三十三身を現じて苦難の衆生を救済するとされていることから、日本の観音信仰として観音菩薩を安置する三十三カ所の霊場を巡礼する信仰があります。三十三種の変化身により安心を与えるものとされ、現世利益として庶民の信仰を集めています。 観音経には念彼観音力という念誦が、偈頌のところに13回もでてきます。念彼観音力と観音の力を念ずれば次のような難からの救いがあると経にあります。 ・観音様の名を心に留めれば大火に入りても火も焼くことができない。 ・大水に流されても浅いところにたどり着く。 ・暴風で人を惑わす悪鬼羅刹の国に吹き飛ばされる難を脱却できる。 ・刀や杖で殺害されようとしても、刀も杖も折れてしまい逃れられる。 ・夜叉や羅刹が人を悩ませようにも、悪鬼の悪眼力は働かず害なし。 ・あらゆる刑具で束縛されていても、その刑具は破壊され脱却できる。 ・敵意ある盗賊に襲われることなく、恐れ無き境地を与えてくれる。 ・むさぼり、いかり、おろかさの心が多くても、欲望から離れられる。 ・女には福徳と智慧のある男が、男にはみめ麗しき女が授けられる。 昨年12月の大阪北新地の心療内科と精神科のクリニックで、病む人を治療し、心の悩みの相談にあたっておられた医者と患者さんを巻き添えにして加害者が放火し自死した事件。今年1月の埼玉県ふじみ野市での、コロナ感染患者の在宅訪問医として献身的につとめておられた医師が銃で射殺されるという残虐な事件。専制主義の国であるロシアが隣国ウクライナに軍事侵略して多くの人命が失われています。これらは崇高なる菩薩道を踏みにじる悪業であり、その理不尽な行為に心が痛みます。 心に疑いを起こしてはなりません。観音様という清浄な菩薩は、わたしたちの苦しみと死の恐怖とにおいて、あなたの拠り所となって救ってくださると経にあります。 観音菩薩によって救われたいと祈ることから観音信仰が始まりましたが、大乗経典の根本思想は、救われる者から救う者への転身を自覚して菩薩道を実践することだから、悩み苦しむ衆生を救済するという誓願をおこすことが観音信仰の根本であると理解したい。そこで救済者としての多くの菩薩が登場しますが、三十三身を現じてということは、一人一人が救う仏として自己転身することを目指そうということでしょう。 |
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具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼 仏教とは仏が説いた教えであると同時に、仏になるための教えです。ですから自己一人の悟りを求めて修行する人というよりも、万人成仏、すなわち、だれでもの悟りであり、他人をも利するという利他行が大乗仏教のめざすところです。みずからも智慧(悟)の心をもとめるとともに、あわせて慈悲の心で利他を行じることが菩薩道であり、これが大乗仏教の本旨でしょう。 観とは自分の心をみるということでもあるから、自己に本来そなわっている、智慧(悟)の心と慈悲の心を目覚めさせるということでしょう。 念彼観音力と唱えるのは、観音様に七難を救ってくださいという現世利益を願う念誦ですが、念彼観音力と唱えることによって自らのこころの内なる智慧(悟)の心を覚まして勇猛心を鼓舞し、苦悩や困難からのがれようとする気力喚起の念誦かもしれません。さらには、念彼観音力と唱えることで、自らの慈悲の心を呼び覚まして利他行を実践するという菩薩としての誓願の決意表明であると理解したいものです。 悩み苦しみからの救いを求めるという、現世利益の願いのみならず、救われるものから救う者へと転身することで、観音経の教えの根本である自未得度先度他、すなわち他を利するという利行の実践を誓願すべきでしょう。したがって、他から必要とされる、他から感謝される、他から尊敬される、そういう人格を目指し精進をおこたらないことが菩薩道であり、自分の幸福につながることになるのでしょう。 観音様は慈しみの眼差しで迷える人々を見守っています。その功徳の集まりは海のように量ることができないほどです。ですから私たち衆生は観音様の御み足を我が頭上にいただき礼拝し、菩薩道のお手本とすべきであることをお釈迦様は説かれたのでした。 現前の世界は法華すなわち絶対の真理の満ちたるところであるから、心が迷えば仏に転ぜられ、心が悟れば仏を転じる。真理が真理を説いている、つまり法華が法華を転じているのです。 |
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