2022年4月1日 第279話 |
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諸法は空相なり | ||||
しかあればすなはち、仏薄伽梵は般若波羅蜜多なり、 般若波羅蜜多は是諸法なり。この諸法は空相なり、 不生不滅なり、不垢不浄、不増不減なり。この般若 波羅蜜多の現成せるは、仏薄伽梵の現成せるなり。 正法眼蔵・摩訶般若波羅蜜 |
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空とは執着しない心そのものです 玄奘三蔵の訳による般若心経は題号を入れても272文字の短いお経です。摩訶般若波羅蜜多心経の摩訶とは偉大なということで、般若波羅蜜多とは、根本的な智慧の完成ということです。般若心経の説かれたところは王舎城の霊鷲山であり、お釈迦様は坐禅をなさっており、その傍らで観自在菩薩が舎利子の質問に答えて、智慧の完成について語るというかたちで説かれたことになっています。 般若心経を理解するキーワードは空であり、縁起の法則を念頭におくことで読み解くことができるでしょう。この世はすべてが空である。空とは空っぽであり、無です、ゼロだということです。その空なるところに縁起の法則がはたらき、万物が現象、つまり存在しているのです。 この世の現象、つまりあらゆるものの存在は縁起の法則すなわち、原因と条件の調和により成り立っているということです。条件とは縁であり、原因と縁が関係すること、すなわち因縁にもとずき存在し、また存在しなくなる。これがこの世の諸法(あらゆるもの)の現象・存在です。因と縁は変わることから、万物はことごとくが同じ状態をとどめていないので無常です。そして、因縁により生じ因縁により滅するが、根本は空だから無我であるということです。 人の命も無常であり無我であるのに、そのことを素直に認めようとせず無知であることを無明といいますが、無明であるから人は限りなく欲望の炎を燃やし続けます。これが煩悩です。その煩悩のために自ら悩んだり苦しんだりしてしまうのです。空とは執着しない心そのものですから、すべてが空であることを覚れば煩悩の炎も消滅して、涅槃寂静の境地が得られると、般若心経は説いています。 |
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空であるから、そもそも実体がないのです 空つまりゼロだから、六種の感覚器官である六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)もなく、六根の感覚対象である六境(色・声・香・味・触・意識の対象の法)も、分別や判断などの認識作用、認識主体としての心である六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)も、無明(無知・迷い)も、老いも死も、四諦(苦集滅道)も、智(さとり)も得(涅槃)もなく、またそれらが尽きることもない。空であるから、生じることもなく滅することもない、汚れることもなく浄らかなこともなく、増すこともなく減ることもない。そもそも実体がないから、心に障りもなければ恐れもないのです。ですから対立的な概念に一喜一憂することもないのです。涅槃寂静のやすらぎの世界に日常生活しているのに、それを識らないのが無明という凡夫です。 この世に存在するすべてのものには、空という特徴があります。人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したものである五蘊(色・受・想・行・識)はみな実体のないもの、空であることを見きわめることで、あらゆる苦しみや災いを取りのぞくことができたと観自在菩薩は舎利子に語りました。肉体も,感覚も、思いうかべる表象も、意志も、認識も、すべてが空にほかならないからです。 「一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 応作如是観」(一切の有為法は夢・幻・泡・影の如く、露の如くまた電の如し、まさに是のごとき観をなすべし)と金剛経にあります。この世界に存在するものことごとくが実体のない夢・幻・泡・影の如し、また露の如く、雷のようなもので、一瞬に消え失せてしまうものばかりである。命とはかくの如くであると観るべしということです。 わたしたちが存在しているこの世界は、すべて生じては変化し、やがて滅していく諸々の現象・存在によって成り立っているから無常です。空とは執着しない心であり、因縁により生じ、因縁により滅するから、自我もなく無我であるということです。ことごとくが生滅変化しているから「一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電」です。だから応作如是観、つまり無常であり無我であると観るべしということです。 |
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生命あるものを害󠄅うは聖者にあらず 人類の歴史は戦争の歴史であると言っても過言でないかもしれません。戦争は命の尊厳を踏みにじる悲惨な行為です。隣国ウクライナへロシアが軍事侵略しました。それはロボット、つまりドローンやミサイルによる戦争であり、経済戦争、サイバー戦争、情報戦争です。かくなる21世紀の戦争ですが、戦禍のもとでは多くの人命が傷つき亡くなっているのです。 専制主義国家の独裁政治家が引き起こした戦争です。民主主義国家群の集団的自衛機構の域外で生じた戦争であり、民族間の紛争でもあり、複雑な事柄が潜んだ戦争で、そこに経済的要因が絡んでいます。しかし長期化し泥沼化するにつれて多くの人命が失われることから早期の終結に人類は努力しなければなりません。 生き物を(みずから)殺してはならぬ。また(他人をして)殺さしめてはならぬ。また他の人が殺害するのを容認してはならぬ。世の中の強剛な者どもでも、またおびえている者どもでも、すべての生き物に対する暴力を抑えて。 「スッタニパータ394」 「かれらもわたくしと同様であり、わたくしもかれらと同様である」と思って、わが身に引きくらべて (生き物を)殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならぬ。 「スッタニパータ705」 二千五百年も前に智慧と慈悲の心でお釈迦様は戦争の惨状を深く憂いてこのように説かれました。 「生命あるものを害󠄅うは聖者にあらず、すべての生きとし生けるをそこなわざるがゆえに聖者とよばれるのである。」法句経270 「悪しきをなす者はいまに苦しみ、のちに苦しみ、ふたつながらに苦しむ。悪しきをわれなせりと、かく思いて苦しむ、かくてなやましき道を歩めばいよいよ心苦しむなり。」法句経17 お釈迦様の時代にも戦争があったから、このような言葉を残されたのです。戦争は煩悩のマグマが膨張して噴き出した人類の蛮行です。戦争という愚劣な行為を引き起こす者は、聖者にあらずだと説かれました。この世のことごとくが根本が空であり、因縁にもとづくことを識るものは、殺生しない、殺生させないから、これを聖者というのです。 |
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諸法は空相なり 諸法は空相なりとは、この世のすべてが空であるということです。この空なるところに縁起の法則のはたらきにより万物が現象しています。原因と条件(縁)すなわち因縁によりものごとは生じ、あるいは滅します。空とは空っぽであり、無です、ゼロということです。したがって人の命もゼロから生じてゼロに帰するから、空です。満開の桜も散る桜も空です。花に集まる蝶もその蜜も空です。学歴や偏差値、財産や地位などに執着しようとも、虚栄も、慢心も、優劣も、苦悩も、喜びも、悲しみも、老も死も、根本が空だからすべからく無でありゼロです。 この世の根本はすべてが空、すなわちゼロであるということですから、無常も無我も、涅槃寂静もすべからく空すなわちゼロです。このことを六祖慧能禅師は本来無一物といわれた。無一物とは空だから無尽蔵でもあるということです。この真実すなわち諸法は空相なりと説いた教えが般若心経です。 「しかあればすなはち、仏薄伽梵は般若波羅蜜多なり、般若波羅蜜多は是諸法なり。この諸法は空相なり、不生不滅なり、不垢不浄、不増不減なり。この般若波羅蜜多の現成せるは、仏薄伽梵の現成せるなり。」 仏薄伽梵とはお釈迦様のことです。諸法は空相であるから、不生不滅、不垢不浄、不増不減である。お釈迦様が菩提樹のもとでさとられたのが諸法は空相なりということ、そして因縁により生滅するということです。諸法はそのままが真理すなわち智慧の現れであり、お釈迦様の現れでもあると、道元禅師は正法眼蔵・摩訶般若波羅蜜の巻きでこのように説かれました。 般若波羅蜜多は是諸法なり。この諸法は空相なり。このことが体得できておれば自我という執着する心もなく、無垢清浄の心でなにごとにも対応できるから、苦しみもなく恐れることもありません。そして自未得度先度他の心がそなわるから、慈悲の心で他に救済の手をさしのべる利他行も実践できるでしょう。観自在菩薩とは仏道者であるところの自己自身であり、日常がそのまま菩薩行であるということです。 |
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