2022年5月1日 第280話
             
浮き世

    先師古仏云く、渾身、口に似て虚空に掛かり、
   東西南北の風を問わず、一等に他の為に般若を談ず、
   滴丁東了滴丁東    
正法眼蔵・摩訶般若波羅蜜

浮き世とは無常の世

 現世のことを、はかない世とか、浮き世といいます。浮き世の浮
(うき)は「苦しい」「辛い(つらい)」ということを意味します。浮き世とは、もとは「憂き世」の意で、厭世(えんせい)つまり、世をはかなんで人生がいやになることから、いとうべき世、つらいことの多い世の中、また、無常のこの世を意味する言葉であったといわれています。

 浮きはもとは「憂き」が本来のかたちで、平安時代には「つらいことが多い世の中」をさしたそうです。そして仏教の厭世観から「無常のもの」「無常のこの世」とか「仮の世」などと「はかない世の中」を表すようになり「浮き世」と表記されるようになったということです。死後の世に対して、この世の中である現実生活とか人生を意味して、辛く苦しい世の中、つまり、日頃の仕事や生活に追われる日常の有様を表して、浮き世というようです。

 世間の常識からかけ離れた言動や事柄、あまり周囲のことを考えずにひたすら我が道を行くマイペースな人や、ノンビリしている人のことを浮き世離れした人といいます。浮き世のせわしない現実から離れて暮らしている幸せな人や、専ら研究にだけに没頭できる人のことを浮き世離れしているなどといいます。

 当世の厳しい風に吹かれ世渡りが難しいことを世知辛いといいますが、義理人情にほだされたり金に溺れて苦しい人生を歩む人もあります。また、つらいことが多い男女の仲を浮世とか憂き世ともいいます。定めのないはかない世の中であるから浮かれて暮らそうという俗世の気持ちや、享楽的な世界をもいうようになり、憂き世が浮き世と書かれるようになったということです。また、仏教ではこの世を娑婆
(しゃば)といい、耐え難きを耐えて生きる世であるとしています。

浮き世のことごとくが因縁により生滅する

 遺産相続で兄弟間に争いが生じて、それが原因で互いに疎遠になってしまったとか、お金の貸し借りが原因で人間関係が壊れてしまったなどというのはよくある話です。老後は貯蓄と年金があるからと安心していても、頼りにしていた子供が先に死んでしまったり、天変地異のために財産を失ったり、投資話につい心動かされたり、一人暮らしのさみしさから情け言葉にだまされて大金を失うとか、病気や事故で苦しむこともある。コロナ禍の影響など、浮き世の常として、人生には先の読めないことが多いのです。

 ロシアが隣国ウクライナに進軍して多くの人命が失われ都市は破壊され、その影響から世界の経済も混迷しています。ロシアの侵略にもとより大義などあろうはずもない。専制主義国家の君主の言葉に拍手喝采をおくるものがあるでしょうか、たとえあったとしても、自国の国益にとっての損得勘定からでしょう。戦争により多くの尊い人命と生活基盤が失われました。戦争は自己中心者の集団的利己行動によるものです。浮き世は因縁により生滅する無我の世であるから、利他に基づいた共生が大原則であるのに、愚かな戦争をするのは人間の性
(さが)でしょうか、国破れて山河あり、人類はとかく大道を見失いがちです。浮き世の人間の愚行を自然界は嘲笑しているでしょう。

 人の命も預かり物と思えばいろんなことのつじつまがあいそうです。人の命の元はといえばお父さんの一滴とお母さんの一滴が結合するところから始まります。出合いそして結合したから命が誕生した。因縁により人間としてこの世に生まれてくることができたのです。
 生命体は入る分子と出る分子との均衡が保たれておれば健康ですが過不足が生じれば身心に支障が生じます。私たちの体もどんな生命も、分子のながれの淀みであり、今という時点で生きている存在です。それはゼロに始まりゼロに帰る刹那の存在であり、人との出合いも浮き世の無常の世にあっては一時の出来事にすぎないのです。

 「春風にほころびにけり桃の花、枝葉にわたる疑ひもなし」道元禅師は霊雲志勤禅師のさとりのこころをこのように詠われた。己が執着は微塵もなし。天地自然が総掛かりで一本の桃の花を咲かせているから美しい。もろもろの現象、存在はすべからく空、すなわちゼロである。ゼロであるところに因縁により生滅する。ゼロに始まり因縁により生じ、因縁により滅してゼロに帰するから、浮き世のことごとくが無我である。何ごとにおいても因縁により生滅していることを念頭において無我であることを認識すべきところが、欲に目がくらんで浮き世の迷路にはまり込んでしまうのが凡夫です。


浮き世は、無一物中無尽蔵

 浮き世の有様を0という数字で置き換えてみるとおもしろい。0とは不思議な数字だからです。 どの整数に0を掛けても、また0をどの整数で割っても答えは0です。たとえば2に0を掛けると、2×0=0です。また、0÷2=0です。-2に0を掛けても、0を-2で割っても0です。ところが整数を0で割ることはできません。2÷0はエラーになり答えはありません。ところが0÷0の答えは無数にあり、すべての数ということです。答えが無いということは無一物ということであり、答えが無数に有るということは無尽蔵ということです。

 整数を乗じるのに、ゼロ乗するとどうなるでしょう。たとえば1の0乗は1です。2の0乗は1です。つまり、どの整数も0乗はすべて1です。0の0乗も1です。すべて0乗は1であるということは、すべての始まりが1であるということでしょう。人の命は赤と白の一滴、すなわち精子と卵子の一滴の出合いと結合が始まりであり、赤も白もそのもの自体は0であるが乗じると、0の0乗は1になり、生命の誕生です。生命のもとは0だから、命の本来の面目とは0、すなわち本来無一物ということです。


 欲望の程度を整数に置き換えて数字で喩えると、煩悩の大きさがよくわかります。欲望の大きさを整数の大きさとすると、その整数の乗数が煩悩の大きさであると見なせるでしょう。乗数とは掛け算で、掛ける方の数のことです。例えば整数2の二乗は4ですが、三乗は8です。3の二乗は9ですが三乗は27となります。欲望を整数で置き換えると、煩悩の炎の勢いが見えてくるようです。そしてそれは苦しみや悩みと表裏一体であるということです。

 静かな池に小さな石を投げ入れても、その衝撃で水面に輪が広がります。さらに大きな石を投げ入れるとより大きな輪がどこまでも広がっていきます。けれどもやがてエネルギーが尽きて輪は消滅して元の静かな水面になります。煩悩の炎も限りあるものですが、そのことに気づかずに放蕩して際限なく繰り返えすと、挙げ句の果てに自滅してしまいます。生命のもとは0だから、本来の面目とは0すなわち無一物です。0だから煩悩の片鱗もなく無垢清浄そのものであるから無尽蔵です。浮き世とは無一物中無尽蔵なりということです。

吹く風にまかせて浮き世を渡る

 生命のもとは0であるから欲望はなく煩悩の片鱗もありません。したがって四苦八苦といいますが、一切皆苦とは虚仮
(こけ)であり、苦の生じることもないのです。一切皆苦ととらえるのは自己の幻想(とりとめのない想像)であり妄想(全く根拠のない自分かってな誤った確信)であって、ほんとうはどこにも苦などありもしないのです。ところが煩悩の炎を燃え上がらせてしまうと、幻想を受けとめ、妄想と認識してしまうから、それでことごとくを苦と感じてしまうのです。

 世の中は金次第、お金があれば何ごともうまくいくと思うけれど、お金は御足
(おあし)ですから、右から左へと流れます。貯蓄に専念しても使い道が上手くなければ真価はあらわれずです。名誉や世間体などを気にしてみても、義理人情にほだされても、しょせん人間界のお話であって、自然界ではどうでもよいお話です。冥土にまで身につけていけるものは業(ごう)、すなわちその人の現世での善悪の行いのみです。

 道元禅師の正法眼蔵・摩訶般若波羅蜜の巻きに「先師古仏云く、渾身、口に似て虚空に掛かり、東西南北の風を問わず、一等に他の為に般若を談ず、滴丁東了滴丁東」 
 如浄禅師の風鈴を詠んだ詩に「からだ全体、口に似て虚空にかかり、東西南北、いずれから吹く風を問わず、ただひたすら、他の為に般若を語るのみ、ちりんちりん、ちりんちりん」とあります。   


 すべからく煩悩が精神を混迷させて冷静沈着な判断を狂わせてしまいます。静慮すれば心の動揺を鎮めて煩悩の炎を滅することができます。たとえ滅せられなくても燃えさかる煩悩の炎を鎮火にむかわせることができるでしょう。煩悩の消滅した境地を涅槃寂静といいます。当世の厳しい風が吹こうとも、風鈴の如く東西南北のいずれから吹く風を問わず、ただひたすら、「ちりんちりん、ちりんちりん」と涅槃寂静の音色を発して心静かに浮き世を渡りたいものです。 

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