2022年10月1日 第285話 |
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一刹那 | ||||
即心是仏とは、発心、修行、菩提、涅槃の諸仏なり。 いまだ発心修行菩提涅槃せざるは、即心是仏にあらず。 たとひ一刹那に、発心修証するも、即心是仏なり。 正法眼蔵・即心是仏 |
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人生百年時代というけれど、長生きは幸せなのか 老いると時が早く過ぎていくように感じるようです。それは歳とともに人生経験が積み重なっていくから、道にたとえると、通い慣れた道が多いので早く行き着くように感じられます。若い人たちは、初めての道ばかりで、とても遠くて時間がかかるような気がするのでしょう。 老若を問わず、楽しいことをしていると、時が早く過ぎていくように思われる。それに比べていやな仕事や辛いことに向きあっていると、早くその苦しさから逃げ出したいと思うけれど、時のたつのがとても長く感じられます。映画は一秒間で24コマの画で構成され、テレビは基本毎秒60コマで表示されているそうですが、見る者の感覚によっては、早く感じたり遅く感じたりします。 現代人は長寿になり、人生百年時代といわれるようになりました。一昔前は60歳の還暦を盛大に祝いました。それが今では生きていることがまれであるという70歳の古希、そして77歳の喜寿、88歳の米寿の祝いもごくあたりまえのことのようです。はたして長生きすることが幸せなのだろうか。日本人の寿命が延びました、それだけ高齢者の割合がふえてきたということです。 お釈迦様は命を藤蔓にたとえられ、その藤蔓を白と黒の鼠がかじっているといわれた。白は昼、黒は夜で日々寿命は短くなり、いつ切れてもおかしくないということです。老いも若きも死は突然におとずれるかもしれないのです。 なぜ死ぬのかが人生における最大の課題です。他人の死は認識できても、自分の死は理解できません。そして、死の先はどうなるのか、経験談を語る者もなく、ただ一人黄泉に赴くのみです。 |
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人は必ず死ぬのになぜ生きるのか 人は際限なくあらゆる欲望をいだきます。その欲望がすなわち煩悩です。煩悩により人はさまざまな行動をします。この行為のことを業といいますが、善業であれば行いが苦しくても、幸せ感がともないます。けれど、悪業であれば悩みがともないます。そして挫折することにより自己の行いを悔やむことになるのですが、それでもまた新たな欲望が沸き起こります。 人間には尽きることのない強欲がある。金銭欲、食欲、睡眠欲、性欲、名誉欲等、際限のない欲の塊が凡夫です。こうした人間の欲望は貪瞋癡(むさぼり、いかり、おろかさ)の三毒から出てくる膿のようなもので、これが煩悩であり、それによって自ら悩み苦しんでいるのです。生じた煩悩が原因で業(行為)というふるまいをするから、自作の墓穴に堕ちて悩み苦しみます。だからお釈迦様は懺悔して煩悩の炎を鎮めなさいといわれた。 なぜ死ぬのか、死とは何か、死の先は、このいずれを考えてみても答えはでません。なぜならば他人の死を見ることができても、自身の死は認識できないからです。人は必ず死んでいくのに、どうして生きようとするのでしょうか。それは幸せになりたいからでしょう。幸せな人生を願うからです。けれども無知な人は、今が良ければと戯れています。快楽をもとめてそれに浸りきっているときは、死を忘れています。そして、生きる力をなくしてしまうと自死することがあるのです。 人はとかく過ぎ去った過去にとらわれてしまいがちです。それで、過去からの解放と心のブレーキを外すべきです。過去の出来事をトラウマ(心的外傷)として消し去れないとか、フラッシュバック(再体験症状)するから、今の自分の不安心を払拭できないでいるという人があります。だが、それも自身の認識であり、身に染みついているといっても、自己の記憶の一つにすぎないのです。なぜならば人体を構成する細胞は新陳代謝しているから、常に新しい私です。過去に蒔いた種が今芽吹き、今蒔いた種は未来に芽吹くから、いつでも今が出発点ということでしょう。 |
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時間は無常であり、存在は無我である 私たちが生きている、日々に生活しているこの世界とはどういうところであろうか。大宇宙に存在する地球ですが、人間社会であり、万物生命の生きている環境でもある。この世界とはどういうものであるかということについて、それはすべてが縁起にもとずき生滅しているところだと、お釈迦様はおさとりになられた。縁起とは原因と条件(縁)の絡み合いで、ことごとくが縁起により生じ、縁起により滅するということで、例外はないのです。 存在するものすべてが縁起により生滅しているから、ことごとくが同じ状態をとどめることもなく、すべからく無常(諸行無常)である。無常であるから永遠不滅なものはなく、露、泡、雷の如しで、固定したものはなく無我(諸法無我)である。縁起により生滅しているのだから、一点のにごりもかげりもなく涅槃寂静である。お釈迦様はこれが三千大千世界という広大無辺の世界の実相であるとさとられたのです。 とある餃子店のお持ち帰りの餃子をいただきました。その包装紙におしゃれな一言が書かれていました、「餃子とは人生の福包みなり」と。餃子店の店主はお客様が美味しいと感じてくださるような餃子を一生懸命料理しているのでしょう。客はそれを食して美味しいと一時の幸せを味わってくだされば、それが店主の喜びとするところです。顧客が増えて店が繁盛すれば、店は儲かる。儲けは客(信者)がもたらしてくれるのです。他者貢献、これは利他という善行です。このように、ことごとくが縁起の理法にもとずいているのです。 縁起による生滅の道理を体得できたならば、ことごとくが無常であり無我であることが自覚できるでしょう。そして寂静無為の安楽、すなわち涅槃の境地を得ることができるのです。この仏法の大意をそのままに受けとめるのが禅定です。一切の煩悩を払拭することを放下着󠄂といいますが、禅定すなわち坐禅です。道元禅師は坐禅を修証一等だとされた。つまり、さとりと修行は一つのものということです。 |
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光陰は矢よりも速やかなり、身命は露よりも脆し 人は臨終に何を思うのでしょうか。素晴らしい人生であったと思えるのか、もう一度自分の人生をやり直したいと思うでしょうか。しかし人生は片道切符ですから、生れたときから冥土行きの列車に乗っているので後戻りできません。人は死ぬと身は滅するが、霊(たましい)は常住不変であるということもなく、常住不変の霊が人身を得て生まれ変わるということもないのです。 今、とは、どれほどの時間をいうのでしょうか。お釈迦様は一回指を弾く間に65の刹那があるといわれました。生きているというのはこの一刹那すなわち一瞬のことで、即今だと教えられました。一切の現象・存在は一瞬に消え失せてしまうものばかりで、命もまたかくの如くです。命は光陰に移されて暫くも止め難しだから、虚しく光陰をわたることなかれ、いつでも、今が、一刹那が出発点です。 仏教では真理を求め真理に生きることを精進といい、それが善行(善業)です。そのような生き方を志す決意が発心であり、そういう生き方をすることが修行であり、真理にさとらされることが菩提であり、苦が消滅した安らぎの境地に入ることが涅槃です。この発心・修行・菩提・涅槃を行じ続けることが行持道環です。 道元禅師はさとり(証)と修行(修)は一つのもので、修証一等であるといわれました。さとりと修行は一つのものだから、発心・修行・菩提・涅槃は一つのものです。ですから、一刹那の発心修証が、そのまま即心是仏であり、お釈迦様と同じ仏であると説かれました。 人は生れたら必ず死んでいくのに、どうして生きようとするのでしょうか。それは幸せになりたいからでしょう。一刹那(即今)の連続が一生だから、幸せな人生を願うということは、一刹那の生き方そのものということです。 人はそのまま仏なり、我が身ながらに尊しで、生まれながらに仏であることに目覚めて、仏として生き、仏として死んでいくことができたならば、それが無上の幸せであるということでしょう。自己の仏心に目覚めて(証)仏心に違わない生き方をすることが日常生活(修)であらねばならないと道元禅師は説かれました。 |
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