2022年12月1日 第287話
             
生死即涅槃

   生を明らめ、死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、
  生死の中に仏あれば生死なし、但生死即ち涅槃と心得て
  生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、
  是時初めて生死を離るる分あり、
  唯一大事因縁と究尽すべし。 
修証義


この世のすべてのものは因と縁と果のつながりによる

 お釈迦様のおさとりは縁起の理法です。自然界のありさまは因(原因)と条件)と果(結果)の関係によります。たとえば、暖かな空気が上昇して上空の寒気と交わると雲が生じ、冷却されると雨や霰あるいは雪となり地上に降りそそぎ水となります。水は地下に浸透して後に湧き出るもの、川となり海に流れ行くもの、また生命体に止まるもの、蒸発するものなどです。
 お釈迦様は、この世の事象はすべて縁起によることをさとられました。宇宙も、地球も、海も、山や川も、生きとし生けるものの命も、人間関係さえもが、ことごとく縁起により生じ、また滅するのです。縁起により生じ、存在し、消滅していくということで、例外はないのです。

 縁起とは、因と縁と果のつながりのことですから、この世に存在するものことごとくが同じ状態をとどめるものはなく、常に変化しているから無常です。変化しながら存在しているものばかりであるから、固定した実体(我)というものはなく、無我です。
 雨、霰、雪や氷というけれど、溶ければ同じ谷川の水です。けれど、同じ状態にとどまっているものはないから無常です。泡の如く露の如く雷の如しで、固定した実体というものがなく、この世のすべてのものは無我である。無常であり無我であるから空であり無であると般若心経に説かれています。

 人は生れた時からだれもが同じ病である、死に至るという病にかかっています。したがって、生老病死は自然なことです。けれども、自分は変わらないという思い込みをしたいがために、人体も無常であり無我であることに素直になれないから、一切皆苦と感じてしまうのです。
 生老病死は同じ状態にあらず、だから無常であり、固定した実体のないものであるから無我です。すなわち空であり無です。ですから、もとより苦の生じることもなく苦の滅することもないのですが、人間は無明であるから一切皆苦であると妄想しているのです。

 一切皆苦を離れるとは涅槃寂静の境地に入るということです。それにはこの世の真実を体得すること、すなわちことごとくが縁起にもとずくことから、すべてが無常であり、無我なることを覚知すべしと、お釈迦様は教えられました。
 道元禅師は「無常を観ずる時、吾我の心生ぜず」といわれました。この無常、無我なることを観ずることが苦の消滅した涅槃寂静、すなわち安楽の境地に入ることの前提であるとしめされたのです。


無明なることを自覚すべし

 人間とは「世の中」と広辞苑にありますが、人間関係すなわち、人との関わりなくして人は生きていけません。けれども自己が一番大切だと思っているから、人間関係が上手に保てなくて、悩みとなるのです。
 生があれば死があるから死別が、出合いがあれば別れがあるから生き別れがあります。人身とは固定した実体のないものであるから、無常であり、無我であることを覚知すれば、利己に執着しなくなるでしょう。そして利他に生きることで、人間関係で苦しむことなく、幸せが実感できるのです。

 健康であるとは、死に至る病が順調に進行しているということです。長寿とは、その速度が遅いということであり、病むと死に至る病の進行が加速するということです。病めば苦しくなるが施薬により(薬の字が)楽になれば、人は死を忘れてしまいます。人身は固定した実体のないものですから、生老病死は無常であり無我である。ところがこのようにとらえないから苦しみから離れられないのです。

 お金は札や硬貨としてその価値が表されているから、インフレになればたちどころに価値が下がってしまいます。お金は欲望の尺度であるのに幸せの尺度だと幻想しているから、尺度の見誤りにより、欲望の闇に迷い込んで奈落の底に堕ちてしまうのです。幻覚して死にいく人もある。お金も人身と同じく固定した実体のないものだから、無常であり無我です。だからお金に惑わされるなということでしょう。


 人には生れた時からだれもがかかる病があります。それは死に至るという病で、これにかからないという人はいないのです。ですから、人の最大の悩みは、いつか死がおとずれるということでしょう。それを認めざるをえないのです。ですから認めたくないと思えばそれも苦です。けれども、医者に余命を告げられたとか、事故や天変地異の恐怖を感じたとか、身近な人が亡くなられたとか、自身が高齢になったり、体調不良を感じて深刻な事態を心配するようなことになれば、自分の死を思うでしょうが、そうでなければ、死を深く考えることもなく日常を過ごしています。このような人間の姿を無明というのでしょう。無常、無我を覚知すれば苦しみの消えた涅槃に入ることができるのです。


幸せのバロメーター

 最近の世論調査では岸田内閣の支持率が下がり続けていることをマスコミが報じています。内閣支持率は政治に対する国民の信頼度というバロメーターでしょうか。
 バロメーターとは、気圧が天気の指標となることから、晴雨計つまり気圧計のことです。このことから、あるものごとの現在の状態を指し示す目印となるものをバロメーターというようになったそうです。

 愛のバロメーター、元気のバロメーター、拍手は人気のバロメーターなどといいますが、これに一喜一憂してしまいます。基準となる本質をしっかりと認識していなければ、バロメーターに翻弄されてしまうのです。幸せのバロメーターがあるとするならば、それは何でしょうか。

 幸せを願うということからすれば、悩みや苦しみがあると、その原因となることを知り、これを取り除き、苦しみからのがれ、幸せになりたいと思います。それで、第三者に相談してみるということで、愚僧のところへも悩み相談があります。悩み事を聞いてもらったから気持ちがまぎれたとおっしゃる方もあれば、悩みから離れられないと、何度も繰り返し思いの丈を打ち明けてこられる方もあります。

 悩み事相談で断トツなのが人間関係です。そして健康、お金に関する悩み、この3つがほとんどです。あなたにとって幸せだと感じることはどんなことでしょうかと尋ねると、まずは健康であること、次に人間関係に恵まれていること、そしてお金の心配がないこと、この3つをほとんどの人は答えるでしょう。そしてその他はその人が幸せと感じることで、さまざまあるようです。どうやら幸せのバロメーターとはこのようなことで、それが充足されないと悩みとなり、深刻であれば苦しみとなるのでしょう。ですから、バロメーターに惑わされるなということです。


生死即涅槃

 「生を明らめ、死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。」と修証義にあります。


 「生といふときには、生よりほかにものなく、滅というときは、滅のほかにものなし。かるがゆえに生きたらば、ただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべしといふことなかれ、ねがふことなかれ。」と正法眼蔵生死の巻きにはこのように道元禅師は説かれています。

 拙僧はこれまでに、二度、死んでいたかもしれないと思われる事故を経験しています。その一つは車の運転中に疲れが原因で一瞬居眠ってしまったのです。それでガードレールの端に激突して車が大破しました。安全装置が働いてショックがやわらげられたからでしょう、大怪我もなくすみましたが、車は廃棄処分となりました。もう一つは、深いコンクリートの側溝に頭から転落したことです。幸いにも頭の損傷の程度も軽く、かすり傷程度で、これも命拾いをしました。いずれも九死に一生を得たという感じで、その時のことを思い出すとぞっとします。死はいつおとずれるかわかりません。生と死は裏と表なり、背と腹なりということでしょう。
 
 生より死に移るのではなく、生というときには生ですべてが言い尽くされる。滅というときには、滅よりほかに何もない。生のときは生だけ、滅のときは滅だけであって、したがって生死だからと、いやがったり、きらったりなどと、生死に執着するすることもなく、一切の苦が消滅したところの涅槃を願うこともなく、ただ、ありのままに受けとめればよろしいということでしょう。 生のときは死でない、死のときは生でない、だから授かった命を存分に生ききることが、生を明らめ、死を明らむるということであり、涅槃の境地に身を置くということでしょう。

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