2023年5月1日 第292話 |
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放下著(あるがままに) | ||||
ただし心をもてはかることなかれ、 ことばをもていふことなかれ。 ただわが身をも心をもはなちわすれて、 仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、 これにしたがひもてゆくとき、 力をもいれずこころをもついやさずして、 生死をはなれ仏となる。 たれの人か、こころにとどほるべき。 正法眼蔵・生死 |
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やがて滅んでゆくという真理を理解せずして、たとえ百歳まで長生きしても、生滅の真理を知っている人が生きる一日には及ばない。 「ダンマパダ」 生れたら死んでいく、これは人間のみならずあらゆる生きものはみなそうです。この地球上に生命が誕生したときから、ずっとそうであって、あらゆる生きものは生れ、子孫に命を繋ぎ、そして死んでいく。この命の受け継ぎが何億年と続いてきた。そして生きものはそれぞれの遺伝子をより多く残すことにおいて進化をとげてきたのです。人間は生きものの中でも最も進化したために、生かし生かされ合うという、生物の食物連鎖からもはみ出てしまったようです。 それぞれの生きものは子孫を残し、子孫を繁栄させるために、今、生きている。命の受け継ぎ、すなわち遺伝子の受け継ぎの過程が生命の姿でしょうか。人間は自己を認識しますが、さまざまな生きものには、自己という認識があるのでしょうか、ただ遺伝子の受け継ぎという、自然の流れの中に存在しているだけなのでしょうか。 人は仕事や子育てに追われたり、ある目的に向かって気持ちを集中しているときには、自己を振り返りませんが、苦しいことや悲しいことが起こったり、挫折したときに、何のために自分は生きているのだろうか、などと思うことがあります。なぜ生れてきたのか、なぜ死んでいくのか、何のために生きているのか、という疑問です。苦しいときに、いっそう死んでしまえば楽になると、悲観や絶望の気持ちがよぎることもあるでしょう。けれども自問自答しても明確な答えが出せないから、気を取り戻して、また明日に向かって歩み始めるのです。 どの生物も遺伝子の受け継ぎという自然の流れの中に存在しているから、これを困難にする状況に遇うと、命の危険を回避しょうとします。遺伝子の受け継ぎという生命一般の現象は人間も例外でない。けれども、生れたら死んでいくという認識をしているのは、生物の中でも人間のみかもしれません。なぜこの世に生れてきたのか、なぜ死んでいかねばならないのか、何のために生れてきたのか、そういう認識をするのは人間だけでしょう。 |
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怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず無一物となった者は、苦悩に追われることがない。 「ダンマパダ」 移り変わるこの世は無常であり、すべてが固定した実体のないもの無我である、この真実の中に生きていることに気がつかないから、自己に執着して、悩み苦しんでいるのかもしれません。ありのままに、自然体で生きればいよのですが、さまざまなことにとらわれるから、迷い、苦しんでいます。お釈迦さまはこれを無明といわれました。 他の生き物にはないであろう悩みや苦しみが、人間にはある。なぜ悩み苦しむのか、それは、自己の欲望に執着して、貧瞋癡(むさぼり・いかり・おろかさの心)の三毒という煩悩をどうしても捨てきれないからです。四苦八苦といいますが、心に深い傷を持ちながら生きている人や、深刻な悩みの憂鬱から抜け出せない人も多いのです。この三毒の煩悩を滅除した、悩み苦しみのない状態をお釈迦さまは涅槃寂静といわれました。 人は本来の面目(仏性)がそなわった仏であるが、仏らしからぬ自分がいます。煩悩のために仏らしくない自分になってしまうのです。したがって常に煩悩のそぎ落としをしなければ、次々と煩悩の炎が燃え上がります。ですから煩悩の炎が燃えあがればそれを抑制し、また、煩悩の炎が燃え上がらぬように心くばりを絶やさないという、日常の心得が大切でしょう。 人は自己の欲望に執着して、貧瞋癡の三毒の煩悩のために、苦しみ、悩み多き迷い道をたどる日々をおくっています。「怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。」と、このようにお釈迦さまは、迷い苦しむ人々に説かれました。 |
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世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとづいて生起する。実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。 「スッタニパータ728」 この世とは、縁起の道理、すなわち因(原因)と縁(条件)との関わり合いにより、果(現象)として、全てが関係の上に成り立っているという世界です。数え切れないほどの生き物が、互いに関係し合って生存しています。どの生き物もみんな生かし生かされあいしています。すなわちすべての命がお互いを支え合っているということでしょう。 お釈迦さまの誕生を象徴した言葉が「天上天下、唯我独尊」です。これは命の尊厳を、そして、人も生き物もすべてみな共に生きていることを讃える言葉でもあります。 自然界を見ると、命が命を育み生かす、すなわち一切の生き物は他を生かし、他に生かせてもらっているという大原則により、存在しています。自然界はすべてが利他によってつながっているといえるでしょう。生きているということは、自分のために生きているようであっても、他のために生きているということで、人間も例外でないのです。 生きとし生けるものはみな森羅万象の自然のめぐり合わせによって生まれ死んでいく命です。何億年もの時間を経た命の連続において、あなたもそして私も、生きとし生けるもの一切が、かけがえのない存在として、命を支えあい、生かしあうために、この世に生まれてきて、今、ここに生きています。だから何万年にわたり人類の祖先は森羅万象の自然のめぐり合わせの恵みに畏敬の念を忘れなかったのです。それがいつ頃からでしょうか、人間は自然の支配者だと思うようになってきたようです。 この世にはさまざまな生き物がいますが人間だけが欲望すなはち煩悩のために自ら悩み苦しみ、あげくのはてに自分の足下すら見えなくなったり、歩むべき方向を見失なったりしています。現代人の多くは人間の社会しか見えていないのでしょうか、森羅万象の美しさに感動し、生きとし生けるものみなを慈しむ、やさしさの心を失なってしまったかのように、人は自己中心の生き方をしてしまいます。自己中心だから、自己の欲望に執着して、貧瞋癡の三毒の煩悩に自ら苦しみ悩んでいるのでしょう。 |
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好ましいものも、好ましくないものも、ともに捨てて、何ものにも執着せず、こだわらず、諸々の束縛から離脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。 「スッタニパータ363」 人は生れながらに本来仏であるが、仏らしからぬ自分になっていないでしょうか。煩悩が湧き出ることにより、仏らしくない自分になってしまうのです。ですから常に煩悩のそぎ落としをしなければ、次々と煩悩の炎が燃え上がってしまいます。煩悩の炎が燃えあがれば、それをおさえなければなりません。煩悩の炎が燃え上がらぬよう、自己コントロールが大切です。それが日常の修行という生き方でしょう。 「人は生れながらに仏であるのに、どうして修行をするのか」、ということですが、人には仏性という本来の面目がそなわっているから、仏性が現れ出る生き方をすればよいのでしょう。自己を仏として生かしていく、その日常の生き方が修行であり、その修行がそのままさとりであると、さとりと修行は一つのもの、修証一等だと道元禅師はいわれました。だが、理屈はわかっていても、この生き方はとても難しいことです。 道元禅師は正法眼蔵・生死の巻に「ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくとき、力をもいれずこころをもついやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどほるべき。」と、このように説かれました。 悩み苦しみがなければ人は幸せです、悩み苦しみのない生き方をめざすのがお釈迦さまの教えである仏教です。いつも背筋を真っ直ぐにして、正しい姿勢で、肩肘張らず自然体で生きていきましょう。ゆっくりとした吐く呼吸法によって、おだやかな生き方を心がけましょうということです。 放下著とは、何ものにも執着せず、こだわらず、あるがままに、ということだから、これを日々の生き方とするならば、自ずと悩み苦しむことのない生き方がだれにでもできそうです。 |
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