2023年7月1日 第294話
             
両忘(りょうぼう)

   生死の中に仏あれば、生死なし。
   またいはく、生死の中に仏なければ、生死にまどはず。
   こころは
夾山
(かつさん)、定山(じょうざん)といはれし、
   ふたりの禅師のことばなり。
正法眼蔵・生死


生れる

 「生」という字は、植物の種が芽吹き、地上に芽を出し、土に根を張り発育する姿をあらわしたものだそうです。人が生れるとは、母親から産まれることであり、養い育てられるということです。そして人として成長して、人間としてさまざまな関わりあいのもとに生きるのです。ですから「生」という字は、生れる、生きる、ということを意味します。

 生れてくるということは、自分の意思でこの世に誕生するというものではありません。ものごころついた頃になって親を知り、成長するにともない自分という存在を意識します。この世に人として生れてくることは得がたい縁によると、道元禅師は人身得ること難し、今、最勝の善身を得たりといわれました。

 世の中はすべてが縁起によると、お釈迦さまは悟られました。何ごとにも原因があり、それに縁という条件が関わることにより、果報として、ものが生れ、ものが滅するということです。ですから父母の出会いがあり、その縁による果報として自分がこの世に人として生れてきたということです。

 生きるとは、生きていること、生きながらえるということだから、人生に処する態度・方法ということでしょう。それは生き方であり、生活の方法です。人生とは人がこの世で生きている間、人の一生ということです。生きるという意味の理解が、生き方ということでしょう。

生きる

 生れてきたときのことも知らず、死ぬ時も自分の死を認識することもない。生れてくる前のこと、前世も、死にたる後のことも、まして後生のことなど知るよしもなく只今を生きているという認識のみです。ですから、お釈迦さまは、死後のことをたずねられてもお答えにならなかったそうです。今をよりよく生きることが大切なことであって、前世があるかないか、後生があるかないか、などということはどうでもよいということでしょう。

 生とは命があるということ、死とは命がなくなることです。だから、生とは命そのものです。「生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふときは、滅のほかにものなし。かるがゆえに、生きたらば、ただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとうことなかれ、ねがふことなかれ。」道元禅師はこのようにいわれました。


 生命体は遺伝子のはたらきによって命の受け継ぎがなされるということです。父母のそれぞれの遺伝子の結合という縁により新たな生命体としてこの世に人として誕生する。生命体は誕生したときにすでに寿命という制限がかけられているから、いずれ死ぬということが決まっているのです。ですから、生命体とは遺伝子の受け継ぎの道具であり、生れること、生きていることも利己的な遺伝子に操られているのかもしれません。

 利己的な遺伝子はわがままに暴走します。生きている人間にはさまざまな欲があります。それらの欲は身体の中のホルモンによって引き起こされるそうです。食欲、性欲、睡眠欲、金銭欲、名誉欲等々際限がありません。その欲のはたらきが煩悩というもので、この煩悩により生きる意欲も、悩み苦しみもうまれるのです。この煩悩の自己コントロールの方法が生き方ということでしょう。
 人身得ること難し、今、最勝の善身を得たのだから、いたずらにして露命を無常の風にまかすることなかれと、道元禅師は生き方の基本をしめされました。

生かされる

 世の中はすべてが縁起によることから、縁起により生れ、縁起により滅する。したがってこの世のことごとくが同じ状態をとどめず、すなわち無常であり、固定した実体の無いものばかりであるから、自分という身も心も露や泡の如くで無我であるということです。無常であり無我であるから、世の中はすべてが関係することで成り立っている、ことごとくがつながっているということです。したがって自力で生きているようであっても、生かし合い、生かされ合っているということでしょう。

 この世とはことごとくが関係により成り立っているところです。あなたがいるから私がいます。私がいるからあなたがいます。カエルもトンボも雀もカラスも、草も木もことごとくがつながっている。つながっているから不必要なものもなく、ことごとくが必要だからこの世に生れてきたのでしょう。あなたも私も何もかもがこの世に必要な存在であるから、関係しながら、今、生きているということです。

 ことごとくが関係により成り立っているということは、一切世界は共同体であり、それぞれが共同体に生きる仲間であるということです。この共同体の世界は一粒の輝く珠であり、真実そのものであると、玄沙師備
(げんしゃしび)は「一顆明珠」といわれました。真実そのものである世界に自分も生れてきたから、自分も輝く珠であるということで、自分を卑下することなく尊ぶべしということです。そして、一切世界は一顆明珠という共同体だから、一人一人が共同体に生きる仲間である。ですから共同体に貢献することが生きる意味だということでしょう。

 世の中はすべてがつながって生かされあっているから、自己中心の欲望のままに生きようとすれば、生きずらさを感じるのです。自分の利を得んと欲すれば、他を利するべし。すなわちこの世は利他でなければ息苦しいところだから、他の役に立つこと、他から必要とされる存在であること、他に貢献することで、真の幸せが得られるのです。

生死を忘れる

 「生死の中に仏あれば、生死なし。またいはく、生死の中に仏なければ、生死にまどはず。こころは夾山(かつさん)、定山(じょうざん)といはれし、ふたりの禅師のことばなり。」と、道元禅師は正法眼蔵の生死の巻きのはじめに記されました。生にあっては死を忘れ、苦にあっては楽を忘れる。このように生と死、苦と楽の対立を忘れることができれば、安穏な心になれるのですが、執着して忘れることができないから、清々しい心境になれないのです。

 私たちは、とかく日常の思いとして、生と死、、善と悪、是と非、などと一方を肯定し、他方を否定しがちであり、相対的にとらえてしまいます。相対的に把握すると、それが悩みになり苦しみになってしまいます。相対的な考えを断ち切り、執着心を払いのける、両忘とは両者の対立を忘れ去ることです。


 道元禅師は正法眼蔵・生死に、「生はひとときのくらいにて、すでにさきありのちあり。かるがゆえに、仏法のなかには、生すなはち不生という。滅もひとときのくらいにて、またさきありのちあり、これによりて滅すなはち不滅といふ。」と、このように説かれました。

 良寛和尚の介護をされていた貞心尼が、老いて病に伏された良寛和尚のお姿を前にして、「生き死にの境はなれてすむ身にも、さらぬ別れのあるぞ悲しき」と心情を吐露されました。これに良寛和尚は「裏を見せ、表を見せて、散る紅葉」とお返しになられたそうです。
 両忘とは生死を忘れるということです。生と死を対比せず、只今を生きるということでしょう。「岩もあり、木の根もあれど、さらさらと、たださらさらと、水の流る」というような生き方ができればよろしいのでしょう。
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