2023年8月1日 第295話 |
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無寒暑の処 | ||||
あるとき洞山の悟本大師にひとりの僧がたずねた。 僧「寒さや暑さがやってきたとき、どうしたら避けることが できるでしょうか」 悟本大師「寒さや暑さのない処に行けばいいではないか」 僧「では、寒さや暑さのない処とはどういう処でしょうか」 悟本大師「寒いときは寒殺して、寒さになりきり、 暑いときは熱殺して、暑さになりきる」 正法眼蔵・春秋 (現代語訳) |
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自分にとって幸せとは、何か 辞書の説明では、「しあわせ」とは、「仕合」、めぐりあわせ、天運(自然のまわりあわせ)、「幸」、幸福、幸運(特に努力したわけでもないのに、ものごとが よいほうへうつること)、などとあります。「しあわせ」とは自分の生き方や行動によって獲得するものでなく、宝くじが大当たりするように、めぐりあわせにより到来するものかもしれません。 「しあわせ」とは、幸せ、仕合わせ、倖せなどと書きます。仕合わせがめぐり合わせ、天運・幸運ということならば、運がよければしあわせになれるということです。また、しあわせとは、「精神的にも物質的にも満足だと感じるようす」、だとするならば、不満がないということでしょう。幸福とは、満ちたりて心が満足した状態ということでしょうか。 あなたにとって幸せとはなんですか、と、問われて、はっきりと答えられるでしょうか。人によって異なるとか、決まった定義など無いと答えるかもしれません。だが、もっとより良くなりたいとか、充実した人生を送りたいという思いはだれにでもあるでしょう。 自分にとってしあわせとは何か、幸せを感じるとはこういうことなんだと、明確に言いあらわせて、自分はそのことに向かって生きているのだと、他に話せるでしょうか。 小説や論文などの、本論に入る前に前書きとして置かれた文章のことを、序章といいます。人生とは生れたときから日々を生きて死に至るまでのことであって、私たちは日々に人生という本論を書き続けているのです。そして本論は命尽きるまで書き連ねられるのです。それは、「しあわせでありたい」という物語でしょう。そして生きている只今であるから序章などないのです。今、というお話の連続ものであるから、本論そのものということでしょう。 |
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人は幸せをもとめて生きている 幸福学の研究をされている前野隆司さんによると、長続きする幸せと長続きしない幸せとがあるという。長続きしない幸せは地位財で、金、モノ、地位など他人と比べられる財である。長続きする幸せは非地位財で、環境や健康に恵まれている幸せ、そして心の要因による幸せであるという。仕事に成功して十分な収入があるとしても、家庭や職場での人間関係が悪ければ幸せだといえません。幸せの要因がバランスよく満たされている人のほうが幸福感があるそうです。 前野隆司さんによると、幸せをコントロールできる、幸せになるための心の要因には次の4つの因子があるといわれる。 ・やってみよう因子「自己実現と成長」、夢や目標を目指して自分の強みを活かし、達成したり成長し努力することに幸せをもとめる。 ・ありがとう因子「つながりと感謝」、多様な他者とのつながりを持ち、他人に感謝し、親切にする。自分を大切に思ってくれる人がいる。 ・なんとかなる因子「前向きと楽観」、ポジテイブで前向きに物事をとらえ細かいことを気にしない。 ・ありのまま因子「独立と自分らしさ」、自分の考えが明確で、人の眼を気にしない。他人と比較せず自分らしくやっていける人はそうでない人より幸福です。 前野隆司さんによると、これらの4つの因子がそろっていると幸せが長続きするというのです。 WHOによる健康の定義では、健康とは身体的、精神的、社会的に良好な状態をいうとあります。しあわせの前提が健康ということでしょう。そして、なぜ人は幸せを感じるのかということで、生理的にはドーパミン、セロトニン、オキシトシンが十分に分泌されている状態、つまり、脳内で幸福物質が出た状態が幸せであるといわれている。幸福物質を出す条件というのが幸せになる方法だといえるのかもしれません。 家庭、仕事、健康、教育、コミュニティ、安全、収入など、人の生活にかかわりあいのあることで、人がどれだけ満足しているか、生活満足度を調べると、経済的に豊かであれば人は満足するかといえば、そうではない。物がゆたかであれば幸福度が増すということは、当然かも知れないがそうでもないらしい。 幸せの条件として、夢や目標を持っている人は達成しなくても幸せである。人とつながることはしあわせであり、利他的にふるまえる人はしあわせである。前向きで楽観的で、なんとかなると思える人はしあわせである。人の目を気にせず、自分らしく自分のペースでやれる人は幸せである。前野隆司さんは、幸せになるための要因として、4つの因子があるといわれた。幸せになることと、幸せに生きることとはちがうのでしょうか。幸せとは一時的なものでしょうか、普遍的な幸せとは何でしょうか。 |
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幸せの実感 心理学者のアドラーは、共同体感覚を得ることが充実した人生の鍵であるとしています。人(私)は共同体の全体の一部であるから、全体と共に生きている。その全体とは家庭、学校、企業、地域、国家、人類、地球、宇宙だという。人(私)が全体の一部であり、全体と共に生きていることを実感することが共同体感覚であり、共同体感覚により幸福感が得られるのだとアドラーはいう。 アドラーは私たちが生きていく上で共同体感覚が欠かせないと言う。人は一人では生きていけないから人間関係を持ちます。他者を敵でなく仲間として見ることが大切で、そのことによって自分の居場所が獲得でき、仲間たちのために貢献しようと思うのです。人や社会に貢献して、共同体の中で自分が人の役に立っていると思うとき、幸であると感じる。それが共同体感覚というもので、それにより幸福感が得られるとアドラーは言っています。 人間とは世の中、ひとの住むところと広辞苑にあります。ですから、世の中でその人が必要だと認められること、他から必要とされる自分であれば、自分の存在感を常に自身で感じ取れます。それが、今、まさに生きているという実感になるのです。そして他が、世の中が必要としていることを自分が受けとめ、応じることができれば、それが自分の幸せにつながります。仕事でも、ボランティアでも、人間関係でも、何でもよろしい、その必要なことに邁進できればそれは幸せそのものです。そしてそういう生き方をしている限り、その人は他から、社会から、感謝され、尊敬されるでしょう。 お金も健康も当てにならない、欲には際限がありませんから、幸せ感は長続きしません。他から必要とされ、他から感謝され、他から尊敬されると、人は心底から幸せと感じます。他から必要とされ、他から感謝され、他から尊敬される、その生き方の一歩一歩に幸せという足跡が伴ってくるから、それが続けられている限り、その人は幸せのレールを踏み外すことはないでしょう。この三つの条件がそろうことが、 人間にとっての幸せの実感といえるでしょう。 |
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幸せをわすれているという幸せ 自分にとって幸せとは何かを求めても、しょせんそれは自己満足の域をでない、なぜならば、露・泡・雷の如しで、生じてはすぐに滅するからで、幸せの持続性が感じられないからです。一時的でなく、自己的でもない幸せ感というものがあるはずです。自己を超えて、①広く行きわたること。すべてのものに通じて、あること。②すべてのものに あてはまること。すなわち普遍なる幸せとはどういうものでしょうか。 仏教では、世の中はことごとくが関係しているところであり、すべてが関係している世界です。古代インドの世界観では、世の中、ひとの住むところを三千大千世界といい、その三千大千世界に人は生きているとしました。三千大千世界、そこに地球があり、国があり、社会があり、家庭があり、自分がいます。それで自分も人も関係しながら生きているから、人間とは、世の中、人の住むところということでしょう。 自分の世界というちっぽけな領域をかたくなに守ろうとすれば、それはとても息苦しい。自分にとって利があるか、不利でないか、そういう思いをもって行動するするのは自分が一番大切だからです。ごく自然であり当然のことかもしれませんが、結局は満足のいくものにならないでしょう。つまり、三千大千世界に溶け込んでいないがために、孤立した自分であるからです。水の中に落とした一滴の油の如しで、水に乳の一滴を落としたように溶け込んでいけないのです。 快適に生きているか、心地よい日常を過ごせているか、悩んだり苦しんだり、心配したり、そういうことがなければ快適で心地よい日々が過ごせるでしょうが、そうはいかないのが現実です。 いかなるかこれ、無寒暑の処という問に、寒いのも嫌だし暑いのも嫌だ、けれども冬の寒さも夏の暑さも、快適な空調の部屋に四六時中留まれないから、冬の寒さも夏の暑さともつきあっていかなければならないと答えざるを得ないのです。冬の寒さも夏の暑さも受入れてこそ、生きていけるということでしょう。 悩みも苦しみも心配ごとも、生きている限りは日常茶飯に生じることであり、それを除こうとしても、あるいはのがれられたとしても、また新たな事象が生じてきます。ですから、その時々に移り変わり現れる事象を受入れることが、無寒暑の処ということでしょう。悩み苦しみを離れることが幸せなのか、悩み苦しみとともに生きることができれば幸せなのか、幸せを忘れているという幸せもあるはずです。 |
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