2023年11月1日 第298話 |
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大空に 心の月を ながむるも 闇に迷いて 色にめでけり 道元禅師 |
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国と国との戦争、民族や部族間の戦争、宗教の違いによるものなど、人類が戦争を起こすにはいろいろな原因がある。科学技術の進展により情報、サイバー、などの戦争も起こっています。経済、食料、エネルギーなど、さまざまな紛争も起こります。 現状においても、ロシアとウクライナの戦争、その他さまざまな地域での紛争が絶え間なく起こっています。今、中東には複数のテロ組織があり、それらが引き起こす攻撃の連鎖により、広域戦争へと広がらないかという懸念があります。 戦力には戦力をもって、力の論理にもとずき、その上で、話し合いがなされるべきとの考え方が現実には主流をなしており、核戦争の抑止力論理も認められているのも事実でしょう。また東西冷戦時代とちがって、国家間の経済力の変化を国際平和の構築と安定においても認めざるを得なくなり、新しい国際平和のための秩序づくりに取り組むべきことが課題となています。 人類は戦争の痛ましい経験から、叡知をしぼって戦争を防ぎ、また引き起こされた戦争や地域紛争の拡大を阻止するために国際法を設けています。だが、これに加盟していない国が多くて、そういう国が紛争を起しています。国際法でも対処できない、また国連組織も現実の戦争行為を止めるのにあまりにも無力です。 戦争も、人間関係の崩壊も、この世は関係で成り立っていることを否定するものです。「但憎愛莫ければ、洞然として明白なり」(信心銘)、憎しみも愛着ももたずに、冷静になれば本当のものが見えてくるはずですが、傲慢な人間には戦争をなくすことができないのでしょう。 |
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職場での人間関係が悪ければ、はたらく意欲も小さくなりがちです。仕事の業績にも影響がでるでしょう。部署の上司であっても同僚でも気が合わないとしっくりいかないものです。ましてパワハラやいやがらせ、いじめがあれば仕事に嫌気がさしてしまいます。ご近所に不愉快な行動をされる方があれば、住み心地も悪くなります。親子や、夫婦であっても、家庭内が不和であれば日常が楽しくありません。 人間関係のゆがみや亀裂はなぜ生じるのでしょうか。その根源をお釈迦さまは、貪り怒り愚かさの三毒にあるとされました。これは欲によるものであり、燃えさかる煩悩です。その煩悩が自己中心の行動となり人間関係を気まずくしてしまうのです。この煩悩を滅却するとまでいかなくても、限りなく小さくすることができれば、利己的行動から利他的行動に変えることができて、人間関係は良好に転じるのです。 自分とか他人とかという区別は宇宙にはもとよりない、「真如法界には、他無く自無し」(信心銘)です。自分が大切で自分以外のものは問題にしないなどと、そう思いがちですが、自分も宇宙の一部です。仏教ではこの世のことを三千大千世界といい、すべてが包含されているから、この世は共同体であり輝く一つの球、一顆明珠です。生きとし生けるものの命もことごとくが一つの明珠です。すべてが関係して成り立っているから、利他でなければ存在できない、利己であれば消滅せざるを得ないということです。 この宇宙には、大きい小さい、早い遅い、優れている劣っている、多い少ない、善い悪い、などと二つの立場に分れるものなどもとよりない。二辺でなく、絶対の真理の総体が宇宙です。 「一即一切、一切即一」(信心銘)です。それが一つの宇宙(法)というものです。一つの宇宙に人も生きとし生けるものすべてが存在しています。「不二なれば皆同じ、包容せずということ無し」「一空両に同じ、斉しく万象を含む」(信心銘)です。宇宙(法)という一つのありのままの実情が、一切の現象をその中に包み込んでいるということです。われわれの日常とは、一つの宇宙(法)に現実に生きている、そのことを率直に受け取ればよいのでしょう。 |
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地球に存在している生命について、人類が確認できているものはほんのわずかであり、未確認のものがどれほど多いことかということです。そしてウイルスという生命とはいえないものまで存在しています。そうした現象のことごとくが、縁起によることを発見されたのがお釈迦さまです。縁起とは原因に条件・縁が関係して果として生じ、また滅するというもので、これが縁起の理(ことわり)です。 古代インドには、梵(宇宙)と自我(霊魂)が一如という考え方がありました。霊魂は不滅であり、生まれかわり死にかわりして輪廻するというものです。お釈迦樣はこの輪廻に疑問をもたれ、そして縁起の理を悟られました。一切の存在は縁起により生滅する。であるから、一切のものが関係して成り立っている。このことを悟られたのです。縁起の理が基で、全世界のことごとくが、くらまされることのない因果の現れであるということです。 この世は縁起の理により生じ、あるいは滅していくから、一切の存在は同じ状態に非ず、変りゆくもの、諸行無常であり、一切の存在に固定した実体を認めること無し、諸法無我である。この縁起の理によりことごとくが関係しているのがこの世であるから、もとより相対の二辺もなく、絶対の真理のみである。それは煩悩の炎が消えた悟りの世界であり、お釈迦樣は涅槃寂静といわれました。 無常であり無我であるから露泡の如しで、すべからく空であると般若心経にあります。空とは有る無しの無でなく、数字であらわせばゼロ・0です。諸行無常、諸法無我、涅槃寂静である現象は空であるから0です。ですから数学では、0に0でないどの整数を掛けても、0を0でないどの整数で割っても0です。ところが0でない整数を0で割ることはできない、それは現象を否定することになるからです。また自乗では、0でないどの整数でも0乗はすべてが1になる。0の0乗も1です。もののはじまりを1にしなければ成り立たないということです。0は空であるから、諸々の現象とは、無一物でもあり、無尽蔵でもあるといえるでしょう。 0×0は0ですが、0の0乗は1です。0の0乗が1ということは、父母の出会いという縁のもとに命を得て、子はこの世に生れてきたということです。その命は生れたら死んでいくという、ただこれだけだから「虚明(こみょう)」である。虚とはなにもないということ、明とはそのことがはっきりしているという意味です。ですから心配したり不安に感じたり不満に思ったりすることもなく、生れたら死んでいくという事実をありのままに受けとめて生きればよいではないか、これが「虚明自照ならば、何ぞ心力を労せん」(信心銘)ということでしょう。 |
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頭で考えると、善いとか悪いとか、正しいとか正しくないとか、好ましいとか好ましくないとか、必ず二辺が生れてしまいます。頭で考えずに、現在目の前にある事実をしっかりつかむこと「現前を得んと欲せば、順逆を存すること莫󠄁れ」(信心銘)です。 何が正しいか、何が間違っているかなどということに関心を持たないのが坐禅です。坐禅はマイナスでもなくプラスでもない、すなわちゼロです。ゼロであるかぎり、現実がはっきり見えるから、 「眼若し睡らざれば、諸夢自ずから除く」(信心銘)で、漠然とした夢のような現実離れした判断は出ない。坐禅は二辺でない絶対の真理の総体そのものであるからゼロであり、涅槃寂静の境地です。 「心若し異ならざれば、万法一如なり。」(信心銘)、如とは現実であり、またこの世の真実のことです。自己の心が動じなければ、宇宙(法)という心も自己という心も、一つの真実そのものです。 気持ちが動揺していると、心が乱れた状態になる。気持ちが落ち着き真実がわかってくると、「迷えば寂乱を生じ、悟れば好悪無し」、善いとか悪いとか、好ましい、好ましくない、などという区別もなくなり、ことごとくを世の中における存在意義として認めるようになる。「違順相い争う、是を心病と為す。」(信心銘)。人間の心は二つの考えが絶えず争いがちであり、これが心の病です。 広辞苑には、無分別とは、分別のないこと、前後の考えがないこと、思慮のないこととあります。一般的には思慮がない、見さかいがない、わきまえがない、などと悪い意味にも使われているようです。 岩波書店の仏教辞典では、無分別とは、分別から離れていること、主体と客体を区別し対象を言葉や概念によって分析的に把握しないこと、この無分別による智慧を無分別智、あるいは根本智というとあります。それは凡人の分別を越えた無上の悟りであり、その無上の悟りの中に生きているのですが、そのことに人は気づかないのです。鑑智僧璨禅師は信心銘を著わして、無分別よる智慧を説かれました。 日常生活する社会には人間がつくった規則があり、また先例を基準に動いています。だが宇宙(法)にはそういうものはなく、もとより決まりきったものがない。人はそれぞれの好みに愛着して、それに従って生きようとするから、宇宙の原則(法)から逸れてしまい、生きずらさを感じることになる。「法に異法無し、妄りに自ら愛着す。」(信心銘)ということです。戦争や紛争、人間関係における心の悩みなどの生きずらさの原因は、ここにあるのです。世の中の実情をよく識り、何が真実であるかを自覚して、どう生きるべきかをわきまえることが肝心です。「智者は無為なり、愚人は自縛す。」(信心銘)ということでしょう。 |
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