2023年12月1日 第299話 |
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活路を開く (信心銘・其の三) | ||||
信心銘 |
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人の悩みや苦しみとは、自らの、貪りの心、怒りの心、無知なる心、そのものであり、お釈迦さまはこれを煩悩といわれました。煩悩とは自己中心の欲が根源であり、頭が燃えさかる炎の如くで、自らが鎮めなければ生き苦しい状態を脱することができなくなる。悩み苦しみの連鎖がさらなる悩み苦しみを増幅するからです。 お金に迷い、お金に身を滅ぼせば、心底まで貧しくなってしまいます。心と身体は一つのものですから、身心が病んでしまいます。そして満たされない気持ちから争いを引き起こしたり、邪教に溺れたりすると、負の連鎖となり、深刻な状態に陥ってしまうことになるのです。 欲しいものは取り、嫌なものは捨てるということが、なんと多いことでしょう。あれが欲しい、これは欲しくない。あれは嫌い、これは好きだと、そのように自分の態度を示すほどに、「良(まこと)に取捨(しゅしゃ)に由(よ)る、所似(このゆえ)に不如(ふにょ)なり」で、如とはこの世の真実ですから、それと一体になれないことから、苦しむことになるのです。 人の心は常に揺れ動いているから、自分の心と体が落ち着いていないと、ものごとの本質がわからなくなります。ですから「玄旨を識らざれば、徒に念靜に労す」で、宇宙の原理原則、つまりこの世の基本原則を識らうとするのであれば、心を鎮める努力をすべしということです。 |
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わずかに ウクライナにロシアが侵攻して、戦争状態が長く続き、いまだにその収束の兆しが見えません。またイスラエルにテロ組織のハマスが攻撃をくわえて人質を盾にしていることから、イスラエル軍がパレスチナのガザ地区に侵攻した。いずれの地域においても多くの人命が失われています。 東ヨーロッパにおいても、中東においても、何百年もの間、争が繰り返されている。お互いに自分が正しいという主張をするから争いが絶えないのです。けれども、互いの主張を棚上げにして、まずは人間の愚かな行為である争いを停止し、人間の思量を越えた万法のもとに互いを認め合うことができたならば、これ以上の人命を失うことなく、共存の途が開かれるでしょう。「一心不生(いっしんふしょう)なれば、万法(まんぽう)に咎無(とがな)し」です。 人間は頭の中で考えて、これが正しい、これが間違っているとして行動します。人間の良心のもとに、正しいことを行い、正しくないことは行わないと判断していても、それがどれ程のものでしょうか。宝塚歌劇団においては長時間労働に加えてパワハラのような行為が日常化しており、社会問題となっています。こうしたことは、人的要因による労働災害であり、どの企業でも起こりうることです。 お互いに自分が正しいと主張をするかぎり、争いが絶えません。また、過重労働が続けられたり、人間の良心のはたらきが絶対だと思い込んで、悪意がなくても、パワハラが繰り返しなされると、体調不良や精神的疾患につながり、取り返しのつかない事態をまねいてしまいます。「わずかに是非有れば、紛然として心を失す」ということです。 |
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これは好ましいものである、これは好ましからざるものである、とか、とかく人は両辺、すなわち二つの極端でものごとを把握しがちです。とりわけ自分にとって損か得かで判断してしまうことがあまりにも多いようです。ところが、それは了見の狭い利己的なものであって、世間では利他的な考えのもとに行動しなければ生き苦しさを感じることが多いのです。それは両辺に非ずという世の中の大道を逸してしまうからです。「若(も)し両辺(りょうへん)に滞(とどこお)らば、寧(むし)ろ一種(いしゅ)を知(し)らんや」ということです。「一種」とはこの世の中を一つのものとして受けとるという意味です。 「一種平懐(いしゅびょうかい)なれば、泯然(みんねん)として自(おの)ずから尽(つ)く」です。心が穏やかで均衡がとれているならば、この世は一つのものであることを認識できるでしょう。さすれば不平不満はなくなるでしょう。 弁舌が巧みでさわやかで、饒舌をふるっても、人の心に伝わらないことが多く、また現実に即応するとはかぎりません。「多言多慮(たごんたりょ)、転(うた)た相応(そうおう)せず」です。 「極小(ごくしょう)も大(だい)に同(おな)じく、境界(きょうがい)を忘絶(ぼうぜつ)す」「極大(ごくだい)も小(しょう)に同(おな)じく、辺表(へんぴょう)を見(み)ず」一台の自動車は小さなネジまで数えると約3万個の部品からできているそうです。そのどれ一つが欠けても車は製造できません。またどの部品であっても欠陥があれば故障や不具合が生じます。事故につながるおそれがあるのです。自動車産業はいずれもが大きな企業ですが、それを支えているのは卓越した技術力をもつ職人さんの小さな町工場の存在です。 「根に帰すれば旨を得、照に随えば宗を失す」見えているものだけに頼って、浅はかに受けとめていると、根本のところを見失ってしまいます。政治をつかさどるものが、自分の地位の保全や、損得勘定で事を進めようとすれば、人心は離れていきます。政治とは人々に幸せと安心安全をもたらすものでなければならないから、主権者に寄り添うことが民主主義の大原則でしょう。 |
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「究竟究極(くきょうきゅうきょく)、規則(きそく)を存(そん)せず」われわれの生きている世界の究極のものは何かということですが、もとより決まり切ったものなどありません。規則や先例というものは人間社会のものであって、もとよりこの世にはそういうものはないのです。 「得失是非(とくしつぜひ)、一時(いちじ)に放却(ほうきゃく)すべし」いずれが損得か、優劣か、どれが正しいか正しくないか、そういう判断を一瞬の間に投げ捨ててしまえということです。そして、何が善いか何が悪いかを十分見きわめて行動すべしということです。頭の中で考えることをやめ、執着心を捨てることによって真実が現れてくるというものでしょう。「是非(ぜひ)を管(かん)すること莫(なか)れ」とお釈迦さまはおしえられました。 「之れを執すれば度を失す、必ず邪路に入る」執着がつよければ、程よさを失って間違いなく誤った状況に陥る。「之れを放てば自然なり、体に去住無し」つまり執着、こだわりを離れたらきわめて自然な状態になれる、ということでしょう。 道元禅師は正法眼蔵弁道話に「いまはまさしく仏印(ぶつちん)によりて、万事(ばんじ)を放下(ほうげ)し、一向(いっこう)に坐禅(ざぜん)するとき、迷悟情量(めいごじょうりょう)のほとりをこえて、凡聖(ぼんしょう)のみちにかかわらず、すみやかに格外(かくがい)に逍遥(しょうよう)し、大菩提(だいぼだい)を受用(じゅよう)するなり」といわれました。 世界情勢においても、一人一人の身近な日常においても、めまぐるしく変化をしている、そういう世界に住んでいるのですから、その時々に、その場その場の判断と生き方の選択がもとめられます。そういう直感の力を養うために、身心を落ち着ける日頃の心構えがとても大切です。現実の世界とは変化するものであるから、生きるとは自分自身が行動するということです。「動を止むるに動無く、止を動ずるに止無し」とは坐禅です。邪路に入ることなく、日々を安寧に生き抜く活路を開くための心得とすべし、ということでしょう。 |
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