2024年1月1日 第300話 |
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こころ | ||||
しかあれば草木叢林の無常なる、すなわち仏性なり、 人物身心の無常なる、これ仏性なり、 国土山河の無常なる、これ仏性なるによりてなり。 阿耨多羅三藐三菩提、これ仏性なるがゆえに無常なり、 大般涅槃、これ無常なるがゆえに仏性なり。 正法眼蔵・仏性 |
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こころとは仏心 お釈迦さまは6年にも及ぶ苦難の修行を経て、この世の根本の道理である法をおさとりになられた。生老病死などの生れながらの苦しみのみならず、さまざまな苦しみをはなれて、安らぎの日々を生きられないだろうか。生きることが苦であるのならば、いかにすれば苦から脱却できるだろうか。お釈迦さまの出家の動機として、そのような疑問があったといわれています。 また、お釈迦さまの出家の動機として、輪廻転生に対する疑問があったとも伝えられています。悠久不滅の魂が輪廻し、生きとし生けるものも、人間も、輪廻転生の世界に生れかわり死にかわりする。ですから人間として今を生きているということは、輪廻転生の現れそのものである。このことにたいして疑問があったのです。それでおさとりになられたお釈迦さまは、我は輪廻せずといわれたと伝えられています。 お釈迦さまのおさとりの根本をなすのは、縁起の理法であるとされています。ものごとのすべてに、因、すなわち原因というものがあり、そしてそれに縁という条件が関係することで、ことごとくが現象している。つまり原因と縁との関わりにおいて、生じ滅するという、縁起の理法によるということ、これがお釈迦さまのおさとりの根本です。 縁起によることから、もろもろの現象や事象のすべてにおいて、変わらないものはないから無常である、諸行無常ということです。無常であるから永遠不滅の事物はなく、したがって固定した実体というものはないから無我である、諸法無我ということです。ですから生老病死を苦であると認識するのは自我によるのですが、もとより固定した実体はないから自我もなく、苦の生じることもなく、苦の滅することもない。そして、不滅の魂もないから、輪廻転生もない。これが仏心であり、涅槃寂静であると、お釈迦さまは教えられました。 |
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こころとは仏性 お釈迦さま寂滅の後、お釈迦さまの教えである仏法は、記憶暗唱として受け継がれました。時を経ると正伝があやうくなることから、聖典を編纂することを目指して、僧達の結集がくりかえされました。こうしてつくられた初期経典である法句経やスッタニパータには、お釈迦さまが語られた言葉がかなりあるとされています。紀元前後には大乗経典として、智慧の完成を説く般若経が出現しました。 金剛般若経に、「一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 應作如是観」とあります。すべての現象は夢幻の如く、露泡雷の如しと受けとめるべしということです。また三百字たらずの経典である般若心経では、心とは核心の意で、「空」という核心について説かれています。色即是空、空即是色とは、色すなわち、もろもろの現象や事象はことごとくが無常であり無我であるから、空であるということです。 生身の人間には生老病死があり、そして我欲があるから、思い通りにならないことばかりです。それで一切皆苦であると、生きていることが苦であると人は認識します。ことごとくが苦であると、自我がそのように認識しているのであって、もとより固定した実体というものはないことから、自我も存在せず、無我であるから、もとより苦もないのです。 すべての現象である色は、夢幻の如く、露泡雷の如しで空である。すなわち、無常であり無我であるから、色即是空、空即是色である。したがって一切皆苦というけれど、すべての現象である色は空であるがゆえに、苦の生じることもなく、苦の滅することもなく、もとより涅槃寂静である。世界は法の満ちたるところであるから、すべての現象は仏性の現成したものであり、それは空です。空とは有無の無でなくゼロです。 |
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こころとは向上心 七仏通戒偈という教えがあります。お釈迦さまがこの世にお出ましになられる前から古代インドにあった教えです。法句教183に「諸悪莫作(しょあくまくさ)衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)自浄其意(じじょうごい)是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」とあります。「もろもろの悪をなさず、すべての善を行い、自らの心を浄めよ、これが諸仏の教えである」ということです。 これは誰にでも実行できそうな、わかりやすい教えです。白楽天と鳥窠道林禅師との問答では、白楽天が仏法の大意を禅師に問うたところ、「諸悪莫作、衆善奉行」と答えた。白楽天は、そのようなことは三歳の子供でも理解していると言ったので。三歳の子供でも理解できるが、八十の老僧でもこれを実行することは難しいと、禅師はそのように答えたという故事があります。 自民党の派閥において、議員間でパーテイー券による政治資金集めがなされており、一定額を超えた議員にキックバックされたお金が政治資金報告書に記載されていなことから、違法行為として、政局をゆるがしている。国益と国民を守るために政治は為されるべきであり、有権者が主人公である政治を為すべしです。献金するものが、自企業や業界団体の利益をもとめてということであれば、それは献金にあらず。またそれを受ける政治家は自分が選挙で当選するために金を使おうとするから、間違いがうまれるのです。三歳の子供でも理解できるが、八十の老僧でもこれを実行することは難しいということでしょうか。 「もろもろの悪をなさず、すべての善を行い、、自らの心を浄めよ、これが諸仏の教えである」ということです。ところが善であると理解していても、それが悪であるということもあります。大切なことは、善とは何か、悪とは何か、ということですが、善と悪という両辺で理解すること、すなわち分別することで本質を見失うことが多いことから、善と悪という二辺でなく一つのものととらえる、無分別智を体得することが「自らの心を浄めることであり、これが諸仏の教えである」ということでしょう。 |
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こころとは慈悲心 「しかあれば草木叢林の無常なる、すなわち仏性なり、人物身心の無常なる、これ仏性なり、国土山河の無常なる、これ仏性なるによりてなり。阿耨多羅三藐三菩提、これ仏性なるがゆえに無常なり、大般涅槃、これ無常なるがゆえに仏性なり。」(正法眼蔵・仏性) 道元禅師は、法で満たされた世界に縁起により生れ今を生きている私たちも、仏性の現成であると、このように説かれました。 道元禅師は私たち自身のことを、仏性そのものであるから、真実人体といわれた。したがって、私たち自身が仏であるから法に背かず、法になじんだ生き方をしなければいけないということでしょう。 法の満ちたる世界に生きているから、真実人体を生かしきるということでなければなりません。したがって、日常の行住坐臥が法の修行であり、法の証(さとり)であるということです。向上心を鼓舞するとは、こういう生き方をすることでしょう。 縁起により、もろもろの現象や事象が生じまた滅する。この世は縁起の理法が根本にある、それが法です。世界は法で満たされたところであり、事象や現象のことごとくが、縁起の理法による仏性の現成そのものであるということです。 この世が縁起によることから、ことごとくが関係してる。今、私が生きていることも、あなたがいるから私がいる、トンボもカエルも、草木も、ことごとくが関係して成り立っています。したがって生きているということは、生かされているということです。であるから、利己では法に背くことになるので、すべからく利他を生き方の根本とすべし。慈悲心の発露した生き方をすべしということです。 心地よい生き方を願うならば、私という仏性・真実人体を生かしきることであり、すべからく利他を生き方の根本とすべしということでしょう。幸せの実感とは、他から必要とされ、他から感謝され、他から尊敬される、この三つが揃うことでしょう。それで、今の自分は他から必要とされているだろうか、他からありがとうと感謝されることをしているだろうか、他から尊敬される行いをしているだろうか、自分自身にこの問いかけがなされておれば、一切皆苦でないはずです。 いつでも今が、出発点です。発心・修行・菩提・涅槃、は一つのものなり。即心是仏とはこういう生き方をしている自己の「こころ」そのものであり、日々是好日、日々新たなりということでしょう。 |
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