2024年3月1日 第302話
             
人生は、ゼロ

   生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり、
  生死の中に仏あれば生死なし、ただ生死すなはち涅槃
  とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてね
  がふべきもなし、このときはじめて生死をはなるる分あり、
  唯一大事因縁と究尽すべし。      (修証義)


夢路を出でて夢路に至る人生の旅は、すべからくゼロである

 人生最大の不思議であり課題というのは、生れてきたら必ず死ぬということです。子供の頃は死を恐怖と感じることがないけれど、成長するにつけて肉親や他人の死を目撃すると、人は死に対して関心をいだくようになります。老若にかかわらず、いずれにしても人間は死を意識します。けれども、他人の死を知ることができても自分の死を知ることはできないのです。それで死を恐れるのです。そして、死の恐怖からのがれるすべを宗教に求めます。

 老いと病についても、死につながることから、恐れの気持ちをもちます。それは苦しみであり、悩みです。すなわち生老病死という、いわば宿命的な現実に対して、それを苦ととらえるのです。それで、この苦しみから如何にしてのがれられるだろうか、のがれられないとしても、どのように振る舞えば苦しみを和らげられるとか、苦しみとうまく付き合えて安堵な心境が得られるだろうかということで、人はそのてだてを宗教に見出そうとするのです。

 医学の発達はめざましいものがあります。かつて結核は不治の病とされたのですが、治療方法が進み克服されるようになりました。癌も予防医学による早期発見と治療方法の向上とにより、治癒確立も高まりました。長寿社会になりましたが、高齢になると二人に一人は癌になるともいわれています。高齢者は癌の進行が遅いというけれど、いずれは死ぬのですから、死にたいする心構えをどのようにしていくか、穏やかな死をどうすればむかえられるであろうか、こういうことに関心がもたれるようになりました。

 母親の胎内にやどり、そしてこの世に生れてくるときには何も身につけず、何も持たず、身体一つで誕生する。そして人それぞれに人生を歩み、この世から去るときにも、身一つで黄泉に赴くのです。財産も地位も名誉も、何一つ携えていくものはありません。伴行きの人もなく、ただ一人逝くのみです。人生の始まりも,人生の終わりも身一つ、裸で生れ裸で去って行く。つまり夢の彼方からゼロで生れてきて、夢の彼方にゼロで去って行く。夢路を出て夢路に至る人生の旅はすべからくゼロであることを認識しておれば、人生のまっただ中にいる只今の生き方に、いささかでも自信がもてるのではないでしょうか。

苦しみと受けとめるのは、無明であるからです

 私たちは生老病死といったのがれられないことに対して、不安な気持ちをもちます。そして、何かにすがったり、何かに没頭することで、その苦しみを一時でもよいから忘れていたいと思います。それで、非日常的な行動をしたり、宗教にのめりこんで念仏や祈りによって精神的な安堵感を得ようとします。神仏に念じ願うことで精神的な一時の支えや気安めになるけれど、生老病死からのがれることはできないのです。

 神仏に念じ願うということにおいては、そのおこないことが道理にかなったものであれば、安心が得られ、生きる勇気や希望をもたらしてくれるでしょう。生老病死は苦であると受けとめるのか、必然の有り様であると認識するのか、それによっても生き方が大きく変わっていくでしょう。苦であるととらえることは迷いであり、無明がそのようにさせるのだと、般若心経は説いています。

 お釈迦樣の教えの根本に縁起の理法があります。この世の事象はことごとくが、原因に条件である縁が関係して果として生滅したものであるということです。したがってこの世の事象はすべからく縁起により関係で成り立っているということです。縁起によることから、固定した実体はないということです。ですから私たちという存在も生老病死という変化があり、無常である。只今存在している私たちの身心も、固定した実体でないことから、無我である。

 無常であり無我であるということは、ことごとくが露泡雷の如くで、空であるということです。その存在が認識できるから、私たちの身心を色としても、無常であり無我であるが故に固定した実体はなく空である。したがって色即是空、空即是色であると般若心経は説いています。関係で成り立っている色も、関係が無くなると空となる。空とは
有無でなくゼロであるということです。したがって生老病死も苦しみでなく、空すなわちゼロである。苦しみと受けとめるのは、この真理を知らない自己が無明であるからだということです。

空はゼロ、色もゼロなり

 縁起の理法によることから、空もゼロ、色もゼロです。0とは不思議な数字です。0にどのような整数を掛けても、0をどのような整数で割っても0です。ところが整数、例えば5を0で割ることはできません。0にどの整数を掛けても、割っても0であるということは、無一物ということです。ところが整数を0で割ることができないということは、無尽蔵であるということでしょう。この世の事象がすべからくゼロであるということは、無一物でもあり無尽蔵でもあるということでしょう。

 この世の事象のすべてが、むろん私たちの身心も、色であるが、空でもある。色も空も0と置きかえると、0×0は0です。0÷0も0です。ところが乗数では、たとえば2の0乗も、5の0乗も、0の0乗もすべてが1になる。これはもののはじまりを1にしなければ成り立たないからです。

 人間のみならずあらゆる生きものは縁起の理法により生滅しています。私たちは父母の出会いという縁によりこの世に誕生しました。それは父親の一滴と母親の一滴が縁により受精したからです。父の一滴も母の一滴も、それのみでは0であり、0×0は0です。けれども縁起により0の0乗で1となりこの世に誕生したのかもしれません。これを勝縁といい、有り難き人身を得ることができたという。有り難しであるから、父母にありがとうの感謝の念を忘れてはいけないのでしょう。

 人は死ぬと荼毘にふされる。骨壺におさめられたものは肉体が完全焼却してしまう少し前に炉の燃焼を止めたから、骨のみが残ったのです。その骨の成分はリン酸カルシウムと炭素です。骨壺のままであればそのままですが、地中に納骨されると水と反応して、やがて跡形もなく
溶けてしまいます。すなわちお骨という存在の色も、もとより空であるから、ゼロとなる。「雨霰雪や氷というけれど、溶ければ同じ谷川の水」ということであり、露泡の如しで一切が空、すなわち0ということです。

人生はゼロ

 お釈迦さまはこの世の事象はすべからく縁起により生滅し、縁起により関係で成り立っているといわれました。無常であり無我であるから、永遠不滅なものはなく、肉体は滅んでも魂は不滅であるということもなく、生まれ変わり死に変りして輪廻転生することはないといわれました。

 あらゆる事象は縁起によることから、固定した実体は認められない。したがって生老病死も縁起による事象にすぎないから、苦であるということもない。ところが苦であると受けとめるのは、貪愼痴(むさぼり・いかり・おろかさ)より生じるところの煩悩がそのように認識してしまい、悩み苦しみとなるのです。したがって、縁起による事象であると認識して泰然自若たるべしということです。

 お釈迦さまは毒矢に喩えて、諸事に心奪われることなく、まずは目の前の苦しみの根源であるところの矢を抜くこと、すなわち苦しみを除くことが肝心であるといわれました。それには苦集滅道を諦
(あきら)めるべしということ、すなわち、苦とは何か、苦はどうして生じるのか、苦が消滅するとはどういうことか、どうすれば苦を消し去れるのか、これが毒矢の喩えであり、法をよりどころとして、自分をよりどころとすべきことを説かれたのです。

 この世に生を受けて、今生きています。生きている限りさまざまな苦しみがつきまといますが、そのことごとくに心奪われ、一喜一憂することもなく、苦しみや悩みさえをも生きる糧とするならば、潤いのある安寧な日常が過ごせるでしょう。心がけとして、人生はゼロであると肝に銘じておくことが、迷いのない、安らかな人生となるでしょう。

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