2024年4月1日 第303話 |
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春風にほころびにけり桃の花、枝葉にわたる疑ひもなし 道元禅師 |
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煩悩の迷いを打ち破る 菩提達磨(ぼだいだるま)を初祖として五祖弘忍(こうにん)の門下には多くの修行僧がいました。その中に神秀(じんしゅう)と慧能(えのう)がいました。五祖は弟子たちに、悟りの境地をあらわす詩をつくるようもとめた。 神秀は「身はこれ菩提樹、心は明鏡の台のごとし、時時につとめて払拭(ふっしょく)すべし。塵埃(じんあい)をしてあらしむることなかれ」という詩をつくった。 これを見た慧能は「菩提、もと樹にあらず。心鏡もまた台にあらず。本来無一物(ほんらいむいちもつ)。なんぞ塵埃を払うことを仮らん」という詩をつくった。 煩悩の迷いを打ち破ってさとることを大悟徹底といいます。神秀はさとりを鏡にたとえて、明鏡を保つのに煩悩の塵を常に払いぬぐいさらなければならないといったが、慧能はことごとくがさとりそのものであるから、ぬぐうことも払うこともない。本来無一物であるという。 |
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本来無一物 神秀は身は菩提樹、心は明鏡の台の如しで、ゼロ・0なれど、汚れぬようつとむべしという。人の本性は自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)であるが、煩悩すなわち塵埃が生じるから、これを払拭するところにさとりがあるという。 慧能は身も心も本来無一物だから、ゼロ・0にして不染汚(ふぜんな)のところ自ずから清浄なりといわれた。人の本性である本来の面目は自性清浄心そのものであり、本来無一物であるから、あえて塵埃を払うこともないという。 五祖弘忍は、慧能こそが悟りの心境をあらわにしているとして、法を嗣がせて六祖とされたのでした。 般若心経に不垢不浄とありますが、本来無一物ということは自性清浄心であり不染汚であるから、塵埃をぬぐうことも払うこともなく、もとよりゼロ・0であるということです。 |
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風性常住 風性常住(ふうしょうじょうじゅう)という禅語がある。 麻谷山宝徹(まよくざんほうてつ)禅師、扇をつかう。ちなみに、僧きたりて問う、 「風性常住(ふうしょうじょうじゅう)、無処不周(むしょふしゅう)なり、なにをもてかさらに和尚扇をつかう」 師いわく、「なんじただ風性常住を知れりとも、 いまだところとしていたらずということなき道理をしらず。」と。 僧いわく「いかならんかこれ無処不周底の道理。」 ときに師、扇をつかうのみなり。僧、礼拝す。(正法眼蔵・現成公案) 麻谷宝徹(まよくほうてつ)禅師が扇を使っていると、「風の本性は常住でどこにでも行きわたっているのに、どうして扇を使うのか」と一僧が問うた。宝徹は答えて、「おまえは風の本性が常住であることを知ってはいるが、どこにでも行きわたっているということがわかっていない」と答えて、ただ扇を使うのみであった。 風性常住にしていたらざる処無しですが、扇を使うことで涼風が周くゆきわたる。風性は仏性であり常住であり、さとりそのものです。扇を使うことは修行であり、行じておれば風すなわちさとりは現成している。修行とさとりは一つのものであることを示されたのです。 般若心経に、色不異空、空不異色とありますが、すべからく空ということです。吹く風は色であるから感じるのです。色であるけれども固定した実体でないから空です。風は見えないけれど、扇の風はここちよく、涼しさを感じる。風性常住とは、風性に満ちあふれたところに日々過ごしていることに気づいて、行住坐臥(日常の立ち居振る舞い)を修行とすべしと教えられたのです。 |
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吹く風にまかせて 道元禅師の正法眼蔵・摩訶般若波羅蜜の巻きに「先師古仏云く、渾身、口に似て虚空に掛かり、東西南北の風を問わず、一等に他の為に般若を談ず、滴丁東了滴丁東」 「からだ全体、口に似て虚空にかかり、東西南北、いずれから吹く風を問わず、ただひたすら、他の為に般若を語るのみ、ちりんちりん、ちりんちりん」如浄禅師の風鈴(ふうりん)を詠んだ詩です。 風鈴には執着というものがない。東西南北の風を問わず、放下著(ほうげじゃく)です。 当世の厳しい風が吹こうとも、風鈴の如く東西南北のいずれから吹く風を問わず、ただひたすら、「ちりんちりん、ちりんちりん」と涅槃寂静の音色を発して心静かに浮き世を渡りたいものです。 煩悩の消滅した境地が涅槃寂静です。風鈴の音は涅槃寂静のゼロ・0の音色です。 「春風にほころびにけり桃の花、枝葉にわたる疑ひもなし」道元禅師は霊雲志勤(れいうんしごん)禅師のさとりのこころをこのように詠われた。浮き世に咲く桃の花に執着は微塵もない。天地自然が総掛かりで一本の桃の花を咲かせているから美しい。それはゼロ・0の美です。 |
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