2024年8月1日 第307話 |
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清風払白月 | |||||
8月24日は処暑です。清風白月を払うとは、 この頃になると、暑さもおさまり、秋風を思わせる 爽やかな風とともに、月をめでる心もうまれます。 |
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精霊を迎えるお盆 日本では古来より人が死ぬと、死体は朽ちても霊魂はのこり、はじめは荒ぶる魂であるが、子孫の供養を受けるうちに、和らいだ魂になると信じられてきました。高度文明社会にあっても、このように死者は成仏した仏の子であるとともに、漂着する移動可能な霊魂として、お盆には精霊棚に帰り、また、ご先祖として石碑や位牌にまつられます。石碑や位牌は祀る仏さまであるととともに、精霊がお宿りになる仏さまとしておまつりします。 家庭にはお仏壇があってご先祖さまを日常おまつりしていますが、お盆にはあらためてお精霊さまとして迎え入れる、そしてお盆の精霊棚を設けてねんごろに供養する、これは古来からのお精霊まつりが、仏教伝来とともに、お盆行事としておこなわれるようになったのだと、いわれています。 また、長い年月を経ると人の魂は自然に帰り、山の神や水の神となって人々を守護し、幸福や豊作をもたらす祖霊神になるとも考えられたから、先祖のまつりを大切にしてきました。かっては、朝な夕なに仏壇や神棚におまいりする姿が日本中、どの家庭でも見られました。 お盆にはお精霊さまをお迎えしておまつりします、おまつりの仕方については、地方によって、さまざまなかたちがあるようですが、それぞれの家にご自分のご先祖さまの精霊を迎えて、家族みんなで飲食供養し、そして精霊と共食して、お送りするということにおいては同じです。 |
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日本人の宗教心 故郷を遠く離れて住む人も、お盆には故郷の墓参りに帰ります。故郷の神社に参り、盆踊りの輪にも加わり、故郷の懐かしい人々にも出会います。山も川も、そして虫も、頬をなでる心地よい風さえも故郷です。故郷はご先祖の世界そのものだから、ご先祖に手を合わす、これが日本人の宗教心でしょう。だが、都市での生活が長くなると、故郷はいっそう遠いものとなり、やがては今住んでいるところが故郷になるのです。 お盆の墓参りをしてご先祖や亡き人への思いをつのらせると、死という避けがたい事実に厳粛な心情をおぼえるでしょう。先祖の墓参りをすることで命と向きあうからです。自己自身の存在を新たに意識し、やさしい自分の心を感じ取ることで真面目に生きようという思いがはたらきます。自己の真の姿や自己の尊厳に気づこうとする思いも起こるでしょう。そして、人生すなわち、自己の生き方を考えるのです。 墓参りをすることで、死という避けがたい事実に厳粛な気持ちになります。それで生まれてきたこと、そして、今生きていることの不思議さと命の尊さを思うのです。 やさしさの心を呼び起こせたならば、人も、生きとし生けるものすべてが共に生きている、共に生かしあっている、この世は仏心の満ちたる共同体であることに気づくでしょう。宇宙・地球・社会・職場・学校・家庭、すべてが仏心という共同体です。それで生きているということは、それぞれが共同体に貢献(利他)することだと認識できるでしょう。そのことによって、今、ここに生きていることの幸せを実感するのです。 故郷はご先祖のおわすところだから、お盆に帰省してご先祖に手を合わすことで、安らぎの心とやさしさの心をとりもどせるでしょう。今住んでるところが故郷である人も、お盆にご先祖のお墓にお参りして、おだやかな気持ちになれるでしょう。先祖を崇拝し、大自然に畏敬の念を抱くことで、安らぎの心とやさしさの心を身につけて、お天道さまに恥じることのない生き方をする。これが日本人の宗教心です。 |
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故郷に帰る コロナ禍ではお盆にも正月にも帰省しなかったという人が多いようです。帰省とは故郷に帰ること、故郷に帰って父母の安否を問うことですが、久しぶりに帰省された人たちは故郷でどのように過ごし、そして何か気持ちの変化があったでしょうか。人は故郷を思慕する心をもっているから、お盆や正月に帰省したくなります。お盆に故郷に帰ると、だれもがやさしさの心をとりもどすでしょう。
忙しくふるまう人も何かのつまずきの瞬間に、ふと郷愁を感じることがあるでしょう。都会の喧噪や華麗さに幻惑されて、故郷を忘れている人でも、なにかのはずみにふと故郷のことに思いをはせることがあるでしょう。すると、もうやもたてもたまらず帰りたくてしかたがない、そのもどかしさが郷愁というものでしょうか。この郷愁は自己の内なる世界を慕うということでもあるのでしょう。 室生犀星は「故郷は遠きにありて思うもの」と、石川啄木は「ふるさとの山に向ひて言うことなき、ふるさとの山はありがたきかな」といっています。心の中の故郷とは、あたたかでやさしい母の懐のぬくもりであったり、雄々しい父のもとでの安心感かもしれません。また青き山々、清き川、風渡る野原、そういう原風景でしょうか。けれども生まれ育ち遊んだ里山に兎が跳びはねることもなく、小鮒がおよいでいる川もなくなりました。 郷愁とは故郷を恋い慕う気持ちのことをいいますが、自己の内面に問いかけるのも郷愁といえるのかもしれません。人は真面目に生きようとするかぎり、自己自身の存在について、自己の真の姿とはどういうものなのか、よりよき人生とはどのような生き方をいうのか、自己の内面に問いかけ、真の自己に目覚めようと思うでしょう。 現代は合理性と科学性を優先する時代だから、これとかけ離れた宗教など要らないと思っている人も多いでしょう。ところがだれかの死に直面するとか、精神的に疲れてしまったり、深い悩みに沈んでしまうと、人は心の安らぎをもとめて宗教に心の解放をもとめようとします。宗教とは人間の生命の一番奥深いところから湧き出てくる清い泉のことをいうのかもしれません。 |
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光陰は矢よりも速やかなり、身命は露よりも脆し 高度経済成長の時代を経て、日本の家族構成が核家族化してきました。そして近年は個の生活者も多くなり、神棚や仏壇のない家庭が多くなりました。朝な夕なに仏壇や神棚におまいりする、おじいさん、おばあさんの姿はありません。「神さま、仏さま、ご先祖さま」と手を合わすうしろ姿に自然にふれて育った子供達は、何処へ行ってしまったのでしょうか、「古くさい慣習」は、あふれるものの豊かさの中に消え去ってしまったのでしょうか。 お 盆には、お精霊さまをお迎えして、おまつりします、お精霊・ご先祖さまとの心のふれあいによって、その一時、なぜかとてもやさしい気持ちに なれるのです。そのやさしさこそ、忘れかけていた、清らかで、涼しげな、そしてあたたかい、だれもがもっているやさしさなのでしょう 立秋が過ぎると、時折吹く涼風にどことなく秋のおとずれを感じます。二十四節気の一つ立秋は暦の上では秋になる日です。 松尾芭蕉の句に「石山の石より白し秋の風 」とあります。秋に吹く風は、秋の色が白にあたるので「白風」ともいう。8月24日は処暑です。清風白月を払うとは、この頃になると、暑さもおさまり、秋風を思わせる爽やかな風とともに、月をめでる心もうまれるでしょう。 秋になると日暮れが早いから、夕刻になると、月日の経つのが速いと感じます。時の過ぎゆくのがことのほか速い、そして、いつ命が尽きてしまうかわからない。まだまだ先があるなどと悠長にかまえていると、突然に死がおとずれるかもしれません。常に人生の終焉を想定した生き方を心得ておくべきでしょうが、それは全く予測しがたいものです。 |
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