2024年10月1日 第309話
             
虚明自照

   いまはまさしく仏印(ぶっちん)によりて、万事放下(ほうげ)し、
   一向
に坐禅するとき、迷悟情量(めいごじょうりょう)のほとりをこえて
   凡聖
のみちにかかわらず、すみやかに格外(かくがい)逍遥(しょう  よう)し、
   大菩提(だいぼだい)
を受用するなり  正法眼蔵弁道話


(まど)かなることは大虚(たいこ)に同じく、欠くること無く余ること無し

 人間の認識には不正確なことが多いのです。それは自分にとって都合の良いこと、自分が不利益にならないことを意識しながら、何事においても自己中心の選択をしようという気持ちが心の底にあるからです。したがって、人間は認識において、真実をそのままに受けとめられずに誤ったり偏ったりしてしまうようです。

 そのことにお気づきになられたお釈迦様は、人間の偏った認識でなく、正確にありのままに認識することの大切さを自覚されたのです。あくまでも認識の主体は人間であるけれど、視点を宇宙に置き換えることで、人間の尺度から宇宙の尺度へと転換されたのです。その認識方法が縁起の理法です。原因と条件(縁)の関係すなわち因縁により因果として生滅するということです。そのことは、一切が関係により成り立っているということの気づきでもありました。

 人間の尺度から宇宙の尺度への転換について、道元禅師は正法眼蔵弁道話で、「仏道をならうというは自己をならうなり、自己をならうというは自己をわするるなり、自己をわするるというは万法に証せらるなり」とあらわされました。認識の主体は自己そのものであるけれど、自己に固執すると万法に証せられないから、一切の本質を正確に把握できないのです。それで自己をわするるなりとは、執着しないこと、放下著するところ、万法に証せらるると説かれました。

 月に満ち欠けがあるけれど、月はもとより真ん丸であり、太陽と月、月と地球の存在において、満ち欠けしていると人は見ているだけです。

 鑑智僧璨禅師は「信心銘」を著して、「円かなることは太虚に同じく、欠くること無く余ること無し」と説かれました。


二は一に由って有り、一も亦守ること(なか)

 「信心銘」は、紀元606年に亡くなられた鑑智僧璨(かんちそうさん)禅師の詩です。お釈迦さまの教えである仏道とは、人の生き方であり、鑑智僧璨禅師はお釈迦さまの教えを詩で説かれました。
 「違順相争う、是を心病と為す。」と信心銘にありますが、私たちはとかくものごとを二辺で捉えようとします。頭で考えると二つの極端が生じます。善いとか悪いとか、正しいとか正しくないとか、好ましいとか好ましくないとか、必ず二つの両極端が生まれます。

 気持ちが動揺していると、心が乱れた状態になります。気持ちが動揺し、心が乱れていると、善いとか悪いとか、好ましいとか好ましくないとか、必ず二つの両極端の認識が生まれてしまいます。気持ちが落ち着き真実がわかってくると、好きだ嫌いだという二辺でなく、一つのものとして受けとめることができるのです。「迷えば寂乱を生じ、悟れば好悪無し」
(信心銘)です。

 頭で考えると二つの極端が生じる。「二は一に由って有り、一も亦守ること莫
(なか)れ」(信心銘)で、二つのうちのどちらかを選んではならないということです。「一切の二辺、妄(みだ)りに自ら斟酌(しんしゃく)す。」(信心銘)。ですから、二つの極端である二辺というとらえかたをひかえめにすべしということです。

 人間の心は「間違いだ」「正しい」という二つの考えが絶えず争いがちです。なにごとにおいても二辺でとらえようとするから、ものごとの本質を見誤ってしまいます。お釈迦さまは人間の認識を離れ、宇宙の尺度でものごとを受けとめることの大切さを覚られたのです。それは中道ということであり、平等ということだと説かれました。

すればえば

 この宇宙には、「不二なれば皆同じ、包容せずということ無し」(信心銘)で、大きい小さい、早い遅い、優れている劣っている、多い少ない、善い悪い、などと二つの立場に分れるものなどもとよりない。二辺でなく、絶対の真理の総体が宇宙で、それが一つの宇宙(法)というものです。

 一つの宇宙に人も生きとし生けるものすべてが存在しています。「一空両に同じ、斉しく万象を含む」(信心銘)です。宇宙(法)という一つのありのままの実情が、一切の現象をその中に包み込んでいるということです。われわれの日常とは、一つの宇宙(法)に現実に生きている、そのことを率直に受け取ればよいのでしょう。

 「若(も)し両辺(りょうへん)に滞(とどこお)らば、寧(むし)ろ一種(いしゅ)を知らんや」(信心銘)。「一種」とはこの世の中を一つのものとして受けとるという意味です。
 「法界には、他無く自無し」真実とはこの宇宙(法)のことです。自分が大切で自分以外のものは問題にしないなどと、そう思いがちですが、自分も宇宙の一部であるから、自分とか他人とかという区別さえも真実である宇宙にはもとよりないのです。「一即一切、一切即一」(信心銘)です。

 これは好ましいものである、これは好ましからざるものである、とか、とかく人は両辺、すなわち二つの極端でものごとを把握しがちです。とりわけ自分にとって損か得かで判断してしまうことがあまりにも多いようです。ところが、それは了見の狭い利己的なものであって、世間では利他的な考えのもとに行動しなければ生き苦しさを感じることが多いのです。それはこの世のすべてが関係して成り立っているからです。
 「根に帰すれば旨を得、照に随えば宗を失す」(信心銘)なにごとも根本に立ちもどると真理を得るが、目の前のことを追いかけている限り大本を見失ってしまうようです。見えているものだけに頼って、浅はかに受けとめていると、根本のところを見失ってしまいます。

虚明自照ならば、何ぞ心力を労せん

 その時々に、その場その場の判断と生き方の選択がもとめられます。そういう直感の力を養うために、身心を落ち着ける日頃の心構えがとても大切です。現実の世界とは変化するものであるから、生きるとは自分自身が行動するということです。

 「法に異法無し、妄(みだ)りに自ら愛着す。」(信心銘)で宇宙の原則はたった一つであって、例外もなく、それ以外の基準もない。ところが、人はそれぞれの好みに愛着して、自分の好みに従って生きようとするから、宇宙の原則から逸れてしまい、生きずらさを感じることになる。
 世の中の実情をよく識り、何が真実であるかを自覚して、どう生きるべきかをわきまえることが肝心です。「智者は無為なり、愚人は自縛す。」(信心銘)ということです。


 道元禅師は「いままさしく仏印によりて、万事を放下し、一向に坐禅するとき、迷悟情量のほとりをこえて、凡聖のみちにかかわらず、すみやかに格外に逍遥し、大菩提を受用するなり。」このように正法眼蔵弁道話で説かれました。
 「動を止むるに動無く、止を動ずるに止無し」(信心銘)とは坐禅です。人間の尺度から宇宙の尺度への転換が坐禅です。
只管打坐するところ人間の認識をはなれ、万法に証せらるることから、大本を見失うことはないのです。


 われわれの人生は生れて死んでいくという、ただこれだけだから「虚明(こみょう)」である。虚とはなにもないということで、明とは余分なものは何もないということがはっきりしているという意味です。ですから心配したり不安に感じたり不満に思ったりすることもなく、明々白々とした事実をありのままに受けとめて生きればよいではないか、「虚明自照ならば、何ぞ心力を労せん」(信心銘)ということです。
 「言語道断、去来今に非ず」
(信心銘)言葉でいわず、過去も未来も現在にもとらわれず、只今の瞬間あるのみです。鑑智僧璨禅師は信心銘という詩で、人の生き方を説かれたのです。

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