2024年12月1日 第311話
             
仏性

     仏性の道理は、
     仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、
     成仏よりのちに具足するなり。
     仏性かならず成仏と同参するなり。
     この道理、よくよく参究功夫すべし。  
                   
 正法眼蔵・仏性


狗子仏性


 中国は唐代の話です。南泉普願禅師の法を嗣いだ趙州従諗和尚にある僧がたずねました。「狗子に還って仏性有りやまた無しや」(狗子にも仏性が有るか無いか)と。狗子とは犬であり、犬にも仏性があるかどうかと一僧がたずねたところ、趙州は「無」と答えました。

 このように「犬にも仏の命が宿っているのでしょうか、あるいは、ないのでしょうか」という問いに、趙州和尚は「無」と答えました。
 また別の僧から同じ質問を受けて、今度は「有」と答えています。相反する答えをしたのはどういうことでしょうか。それは無といい、有という概念にとらわれている相対的認識を超えなさいという戒めです。

 同じく南泉普願禅師の法を嗣いだ長沙景岑和尚にある僧がたずねた。「ミミズが斬られて二つとなりました。両頭とも動いています。いったい仏性はどちらにあるのでしょうか」と。長沙和尚は「莫妄想(まくもうぞう)」妄想してはならないと答えました。

 有りというのも、無というのも、動というのも不動というのも、ともに分別であり、ミミズを半分に切ってそのいずれに仏性があるのかと、それを問うても意味の無いことです。凡夫の立場からいう相対的な「ある」「なし」では仏性は理解できません。我執すなわち自己への執着心を除かないかぎり、妄想の迷路を抜け出ることができないからです。


有と思い無と思う対立的認識をしないこと

 仏性とは一切衆生が本来もっている仏となるべき性質で、仏の心・仏の命です。狗子に仏性有りというのも、仏性無しというのも、有り無しというこだわりにすぎません。有る無しは分別心そのものであるから、分別心があるかぎり仏性の有無は解し難い。それで、有る無しを離れるべしと、無分別、すなわち「無」であると答えたのです。

 趙州の「狗子仏性」の「無」とは虚無でもなければ、有無相対の無でもない。有とは何か、無とは何かと詮索すると、迷路にはまり込んでしまうから、心のやすらぎを得ようと思うならば、有と思い無と思う対立的認識をしないことだということです。

 仏性の語は「涅槃経」に「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」とあります。仏性は衆生が本来有しているところの、仏の本性です。ところが、この衆生のうちなる仏性は、煩悩にかくされて、凡夫には仏のはたらきとして現れてこないのです。

 禅を参究(参禅して仏法を究める)するには、心意識の分別心を断ち切ることができなければ、妙悟を得ることができないとされています。それで分別心を完全になくしてしまおうと「無」の一字のみをとりあげて、「無」という文字の概念に迷わされず、身につけた知識をすべて吐き捨てるために「ムー」と息を吐くことで全霊を集中させようとする修行もあるようです。

人工知能ロボットに、仏性が有るか、無いか 

 人工知能が飛躍的に進化しています。人工知能に挑戦することで囲碁や将棋の名人が育っています。人工知能の機械が製造部門で稼働しています。人工知能ロボットが介護や教育の現場で用いられ、人工知能の店員が販売サービスの業務に就いています。公道では人工知能による自動運転車が走り出しました。人工知能搭載のドロンなどの兵器が戦場に投入されています。

 生成AIも驚くべきスピードで人間社会のさまざまな方面で、利用されるようになりました。
やがて人工知能で人間の感情をも読みとれるようになり、俳句や川柳を詠むロボットも出現するでしょう。日常生活の場でも人工知能が便利さを受け持つようになってきました。そのうち人の感情を理解する能力を持つ人工知能ロボットが、高齢者の介護や生活介助のみならず、一人暮らしの寂しさや、悩み苦しみを癒やす同居人になるでしょう。犬や猫は裏切らない相棒であるけれど、生老病死の苦しみや悲しみをともないます。けれども人工知能のロボットの相棒にはそれがありません。

 「人間は幸福であることがこの世の第一のことであるから、いたずらに仏性を説いても、だれも見たものがないではないか」と。その問いに答えて龍樹尊者は「(なんじ)仏性を見んと欲せば、先ず須(すべからく)我慢(がまん)を除くべし」。仏性を見ようと思うならば、まずは我慢を除くべきであるといいました。我慢とは現代の日本語では、たえしのぶとか自己を抑制するという意味になっていますが、我慢は煩悩の一つで、強い自我意識から生じるところの慢心のことです。自己に執着すること、すなわち我執から起こるとされている我も慢も除かれておれば、そこに仏性が現れているということです。

 衆生とは、人はもちろん、牛や馬、犬、猫など、生きとし生けるところの有情の生物です。そして、有情のみならず、道元禅師は「草木国土これ心なり、心なるが故に衆生なり、衆生なるが故に仏性有り」と、草木土石、山も川も、すなわち無情のものも衆生であると説かれました。
 人工知能を有情とするか、無情とするかはさておいても、人工知能ロボットに仏性有りや無しやと問いかける日がいずれ来るでしょう 

仏性は必ず成仏と同時に現れる

 仏性とは、人間に本来具わる自性清淨心(じしようしようじようしん)であり、凡夫・悪人といえども所有しているような仏心(慈悲心)だとされています。ところが、有るとか無いとか、頭でこねまわして、分別や感覚で考えてみてもわかりません。仏性は理解するものでないからです。

 自己に仏性が具わっているのだということを自覚しているのか、あるいは、まったく認識せずに日々を過ごしているのか、それによって生き方がおおいにちがってきます。すなわち自性清淨心・慈悲心に満たされた真実人体が自己であるとするならば、日々に自己の生き方を充実させようと心がけるからです。

 「仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり。この道理、よくよく参究功夫
(さんきゆうくふう)すべし。」正法眼蔵・仏性
 仏性とは、一切衆生が本来もっている自性清淨心であり慈悲心です。仏性は成仏(仏となること)より前にそなわっているのではなく、成仏してのちにそなわる。仏性は必ず成仏と同時に現れる。この道理をよくよく参究功夫(参禅して仏法を究める)すべきであると道元禅師」は正法眼蔵・仏性に説いています。

 「この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。」と道元禅師はこのように説かれました。姿勢を正しくして、肩肘を張らず、呼吸を調えて坐ります。しばし心を鎮めて端坐するところに本来の面目である仏性が現れます。
 「狗子にも仏性が有るか無いか」ということの意味は、犬に仏性が有るはずだと、また無いはずだというのではなく、「十分に修行のできた人でも、さらに修行するのだ」ということです。

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