2025年4月1日 第315話
             
春が来た

  渓声すなわち是れ広長舌、山色清浄身に非ざることなし。
  夜来八万四千偈、他日如何が人に挙似せん。
 
谷川の音は仏の説法の声であり、山の姿は清浄な仏の身である。
  昨夜来聞く八万四千の教えを説く偈を、他日どのように人に説く
  べきであろうか。)            
正法眼蔵・渓声山色


咲く花の匂うが如し

 四月から学校では新学期が始まり新入生が入学し、企業では新入社員が社会人の一歩を踏みだします。事業年度の始まりであり、あらゆることがこの月から新たにスタートします。四月の年度初めの頃に桜が開花します。人々は毎年この時期には桜の開花を待ちこがれます。日本人にとって桜には、格別の思いがあるようです。

 四月は花の季節です。またさまざまな生き物が生きるいとなみを活発にする時期です。新しい命が躍動する、生き物も出会いの季節をむかえたのです。
 四月は幼稚園の入園や小学校、中学、高校、大学と、新しく入学するもの、進学するもの、また、新しく就職する人たち、移動や転職される人たちなど、人生の新しい節目の月、それが四月です。

 四月は新年度の始まりですが、昔は「年度」というものはなく、暦年で1月から12月までを会計の期間としていたようです。明治維新の後に政府の財政が苦しくなり、暦年に合わせることができなくなって「年度」というかたちがとられるようになりました。明治19年に現在の4月から翌年3月までの年度が定められた。会計年度の始期が4月1日となったのは、秋の収獲後の徴税の都合のためであるとされています。

 日本では一月が年の始まりということならば、四月は年度の始まり月ということです。年度の始まりということで、さまざまな社会の変化が始まろうとする、それがこの月です。
 そんな人間社会の節目月に、自然界は花を添えるかのように桜花爛漫、百花咲き乱れる華やかな時節です。咲く花に人々は心うきうきするとともに、咲く花は瞬く間に散ってしまう、そんなもののあわれを感じる、それがこの時節でもある。

 あちこちから桜の花便りが届きはじめると、寒い冬が過ぎて暖かな春を迎えた喜びを感じます。この時期は年度当初でもあり、入学、就職、仕事など、さまざまな始まりがあります。新たな一歩を踏み出す人に花を添えるかの如くに桜が開花しますから、桜には人生の節目を飾る花として、とても印象深いものがあるようです

いつも只、我が古里の花なれば、色も変わらず、過ぎし春かな

  はるがきた はるがきた どこにきた
  やまにきた  さとにきた  のにもきた
  はながさく  はながさく  どこにさく
  やまにさく   さとにさく  のにもさく
  とりがなく   とりがなく  どこでなく
  やまでなく   さとでなく  のでもなく

 春が来たという童謡の歌詞です。どこもかしこも一面に、隅々にまで、あますところなく、春が来るのです。そして、山にも野にも里にも、花は咲き、鳥がなくのです。宇宙いっぱいのはたらきで春が到来する。自然が総掛かりで花を咲かせ、鳥は美しい鳴き声を発する。生かし生かされあいして、すべてが関係して春が到来する。

 「敷島の大和心を人問はば、朝日ににほふ山桜花」と本居宣長が詠んでいます。山桜は虚勢を張ることもなく、自己顕示もしていないのに、雄々しく優雅です。古来より人々は、山桜が咲くと、山の神さまが出現したと見なしました。また、先祖や亡き人の魂が宿っていると崇めました。そして春の到来を喜び、共生の有り難さを共感し合うのです。

 「いつも只 我が古里の 花なれば 色もかわらず 過ぎし春かな」と道元禅師が詠まれました。山里に咲く山桜は美しい。それは人知れず咲いているからであり、時節になれば天地の恵みを受けて、自然が総掛かりで咲かせているから美しいのでしょう。
 四季それぞれに、その時節になれば花が咲く、そして散っていく。咲く花のこころは、今も昔も変わらない。なんの疑いもなく、ただひたすらに咲き、そして散っていくから美しい。春は共生世界のあらゆる生命の歓喜あふれる季節です。


 二千五百年の昔、インドにお釈迦様が誕生されました4月8日とされています。仏教寺院ではご生誕を祝い灌仏会(はなまつり)をします。天上天下唯我独尊とはお釈迦様誕生を祝う言葉ですが、衆生のすべてにあてはまるのでしょう。受け難き人身を受けることができた喜びであり、一度きりの尊き命をたたえるものです。そして、 この世は原因と条件(縁)のもとに生滅します。ですから自然界は全てが関係して成り立っています。共に生かし合うことを讃えたものです。どの命の誕生も宇宙いっぱいの力で生み出されたものであり、仏の性そのものであるから尊いのでしょう。

自然界は無常説法であふれている

 霊雲志勤禅師は他山への遍歴の旅の途中、山のふもとで休息して人里を見渡していました。桃の花盛りを見て突然悟りを開かれたのです。永年にわたる修行の末、桃の花とともに悟られた。見るものにとって桃の花は綺麗でも、桃は綺麗を自己主張して咲いているわけでもなく、ただ春風に吹かれて開花したのです。まさに今ここに桃(仏心)が花開いている。何もない枝「空」に蕾が生じ、春風に誘われて桃の花は開き、また散り「空」に帰す。自然が総掛かりで咲かせているから美しい。

 庭掃除で掃いた石が竹にあたって音がした。香厳智閑禅師はこの音とともに開悟された。黙々として掃き掃除をしていたら、飛んだ石が竹にあたりコチンと音がした。聞こうと思っても聞こえるものでもなく、それは静寂「空」を破る音であった。今ここに音(仏心)が声を発した。一瞬のことで音は消えてもとの静寂「空」に帰した。

 この世は仏心の無情説法であふれている。人間の思量という分別の働きによらず、すなわち非思量・無分別のところにおいて、はじめて仏心にふれることになる。

 天地の語る声をどのように聞くのか、執着心を放れてはじめて無情説法を聞くことができる。無情説法を聞いていると、悩み苦しみも解きほぐれるでしょう。日常の生活において、時には心静かに無情説法に目を耳をかたむけたいものです。


峰の色 谷のひびきもみなながら 我が釈迦牟尼の声と姿と

 禅の修行道場では、この時期になると修行を志す若い僧侶が身支度をととのえて、入門を請う姿がみられます。禅寺ではお釈迦様の時代に行われていたように、僧伽とよばれる僧が集団で修行するところでは、古代インドのやり方に同じくして、三ヶ月間の安居を修行します。
 禅の修行道場では桜の花が咲く頃より夏安居という三ヶ月にわたる修行生活が始まります。その夏安居の始まりにあたり、道元禅師は渓声山色という教えを説いておられる。宋の蘇東坡居士の開悟の心境を話されたのです。

  渓声すなわち是れ広長舌、山色清浄身に非ざることなし。
  夜来八万四千偈、他日如何が人に挙似せん。
 
谷川の音は仏の説法の声であり、山の姿は清浄な仏の身である。
  昨夜来聞く八万四千の教えを説く偈を、他日どのように人に説くべきであろうか。)
                                
 
 道元禅師は和歌を集めた傘松道詠のなかで、蘇東坡居士の開悟の偈と同じ意味をあらわしたものとして、「峰の色 谷のひびきもみなながら 我が釈迦牟尼の声と姿と」詠われました。
 自然界は原因と条件(縁)により全てが関係して成り立っている。したがって原因と条件(縁)は絶えず変わり続けていますから、どんなものでも同じ状態をとどめるものはなく、永遠不滅のものは存在しません。蘇東坡居士は縁起の道理のあらわれを、渓声山色と悟ったのです。

 四月には入学や進学、あるいは転校など、学生の新しい動きがある。新しく就職する人、転職する人、転勤や職務の変更があった人など、社会的移動もある時期です。希望に満ちあふれて躍動感を抱く人もあるでしょう。その変化について行けなくて挫折したり思い悩む人もある。

 この世はつながりによって、関係で成り立っていることを理解しておれば、その関係を良くしていくのにどのように対処すべきであるかが見えてくるでしょう。関係でつながっているから、どうすれば、環境の変化にも、新しい挑戦や出会いに応じ得るかが理解できるでしょうが、関係というつながりを重視しないとか、馴染めないということになれば、社会的孤立に繫がってしまいます。
 大切なことは、この世とは生かされ生かし合うところであるから、利己でなく、利他という善循環という関係でつながっています。その根本の流れから逸れない生き方が求められるということでしょう。   


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