2025年11月1日 第322話
             
善悪の報い

   善悪の報に三時あり、一者順現報受業、二者順次生受、
  三者順後次受業、これを三時という。
仏祖の道を修習する
  には、その最初より、この三時の業報の理をならひあきら
  むるなり。
    正法眼蔵・三時業


身・口・意の三業

 人は生まれながらに無垢清浄
むくしようじよう
)な心がそなわった仏であるけれど、どうして仏らしくないところがあるのでしょうか。それは、人は煩悩の入れ物だからでしょう。尽きることのない貪欲のために煩悩が燃えあがってしまうのです。煩悩とは正しい判断をさまたげてしまう心のはたらきで、煩悩が湧き出ると自ら悩み苦しむことになります。

 悩み苦しみの根源である煩悩が燃えあがらぬように、煩悩の炎を滅除せよということですが、人は煩悩の入れ物ですから、尽きることなく煩悩が湧いてきます。煩悩により仏らしさをなくすると、身心は乱れて、悩み苦しみを自分で招き、心身ともに病んでしまうのです。

 人の行いを業
(ごう)という。業とはサンスクリット語のカルマンの訳語で、「なす、おこなう、つくる」ということで「行為」を意味します。業とは身・口・意の三業で、行為のあり方により、身体にかかわる行為を身業、言語にかかわる行為を口業、意思にかかわる行為を意業として、三業に区別されます。

 我、昔より造りしところの諸々の悪業は、皆、無始の貪瞋癡(とんじんち)すなわち、むさぼり、いかり、おろかなるこころ、による。それらは身・口・意よりの生ずるところなり。貪瞋癡が煩悩そのものであり、身・口・意の三業がその根源であるということです。

三時業とは、順現報受業、順次生受業、順後次受業

 人の行いすなわち行為のことを業といいますから、日常生活は身・口・意の三業そのものです。それは善業であったり、悪業であったり、善悪雑じった業であったりします。人が生活するということは、それらの業の連続であり、日々に積み重ねられていくということです。

 因果の観念によると、因果応報で、一つの行為はかならず善悪・苦楽の果報をもたらすとされています。

 原因としての善悪の業によって報われる結果を、報われる時世の遅速にしたがって三種に分類したものが三時業です。

 善悪の行為はかならずそれを行った人自身に報われるが、その報いをうける時期によって三つに分けられる。
三時業とは、順現報受業、順次生受業、順後次受業です。
 順現報受業とは、この生で業をつくって、この生で報いを受けるものです。行為を行った直後、またはその人の生涯の間に報いを受けるものです。善いことでも、悪いことでも、この世で為したことは、この世で報いを受けるのを、順現報受業という。
 順次生受業とは、この生で業をつくって、次の生、来世で報いを受けるものです。順後次受業とはこの生で業をつくって、来世をすぎてそれ以後に報いを受ける、次生以後で報いを受けるものです。


 あらゆる事物・事象、つまり存在するものは、すべからく原因と条件(縁)により生じ、あるいは滅する。すなわち縁起による。そして因果応報でその報いがある。報いはないのではなく、かならずあるということです。この世に存在するものは、なにもかもがつながっています。何一つとして、それのみで存在しているものなどありません。そのつながりにおいて、生まれ、つながりがなくなれば滅することから、報いはかならずあるということを肝に銘じておくべきでしょう。


日常生活において、善業のみを努力して行う

 人は生まれながらに自性清浄(じしようしようじよう)の心がそなわった仏であるから、仏らしい生き方である戒をたもつことで仏らしく生きられる。悩み苦しむことなきように、日々の生活において戒をたもつ生き方をしなさいということです。
 身・口・意の三業が日常生活そのものであり、因果応報でその報いがあることから、善業のみを努力して行わなければならないと、道元禅師は三帰戒(さんきかい) 三聚浄戒(さんじゆじようかい)十重禁戒(じゆう(じゆうきんかい)日常の心得とすべしといわれました。

 戒とは自性清淨心そのものですから、戒をたもつ生き方を心掛けよということです。それで、まず懺悔して、そして仏法僧の三宝に帰依し、三聚浄戒、十重禁戒をいただくことを道元禅師は「教授戒文」で説かれました。


●身・口・意の三業を清浄にする(懺悔文)
 我昔所造諸悪業 (がしやくしよぞうしよあくごう)
 皆由無始貪瞋癡 (かいゆうむしとんじんち)
 従身口意之所生 (じゆうしんくいししよしよう)
 一切我今皆懺悔 (いつさいがこんかいさんげ)
 我、昔より造りしところの諸々の悪業は、皆、無始の貪瞋癡による、
身口意よりの生ずるところなり、一切、我、今、懺悔したてまつる。

●仏法をよりどころとして生きぬこうとする誓約(三帰戒)
南無帰依仏(なむきえぶつ)・・・仏に帰依し、真理を求め生きる
南無帰依法(なむきえほう)・・・法に帰依し、真理の教えに生きる
南無帰依僧(なむきえそう)・・・道を求める僧に帰依し、和合して生きる

●止悪・修善・利他へと生き方を転換する決意表明(三聚浄戒
第一 摂律儀戒(しょうりつぎかい)不善を為さない・悪いことをしない
第二 摂善法戒(しょうぜんぼうかい)善行に励む・善いことはすすんでする
第三 摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)世のため人のために尽す

●日常の生活信条(十重禁戒)
第一不殺生戒(ふせっしょうかい)
 生命あるものをことさらに殺すことなかるべし
第二不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
 与えられないものを手にすることなかるべし
第三不邪婬戒(ふじゃいんかい)
 道ならざる愛欲を犯すことなかるべし
第四不妄語戒(ふもうごかい)
 いつわりの言葉を口にすることなかるべし    
第五不酤酒戒(ふこしゅかい)
 己も酒に溺れ迷うことなく、他人にも迷いの酒を飲ませない
第六不説過戒(ふせっかかい)
 他人のあやまちを責めたてることなかるべし
第七不自讃毀佗戒(ふじさんきたかい)
 己を誇り他の人を傷つけることなかるべし
第八不慳法財戒(ふけんほうざいかい)
 物でも心でも施すことを惜しむことなかるべし
第九不瞋恚戒(ふしんいかい)
 怒りに燃えて自らを失うことなかるべし
第十不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい)
 仏法僧の三法をそしり不信の念を起すことなかるべし
 
 戒とは、何人にもそなわっている自性清淨心すなわち仏性・仏心そのものですから、自性清浄心を自覚する生き方が戒をたもつということです。日常生活において、善業のみを努力して行うということです。

三時の業報の理をならひあきらむるなり

 「善悪の業をつくってしまえば、たとえ百劫を経たとしても、つくりしところの業は消えない。因縁、熟するとき、必ずそれに応じて結果があらわれる」と、お釈迦様が言われた。

 さらに「純粋の悪業には、純粋の悪の報いがあり、純粋の善業には純粋の善の報いがある。あるいは善悪の雑じった業には、善悪の雑じった報いがある。それゆえに純粋の悪業、および善悪の雑じった業を離れて、ただ純粋の善業のみを努力して行わなければならない」、このようにお釈迦様が言われました。

 「善悪の報に三時あり、一者順現報受業、二者順次生受、三者順後次受業、これを三時という。仏祖の道を修習するには、その最初より、この三時の業報の理をならひあきらむるなり。」道元禅師は因果応報について、三時の業報の理をならひあきらむるなりといわれました。

 我、昔より造りしところの諸々の悪業は、皆、無始の貪瞋癡による、
身・口・意の三業なり、一切、我、今、懺悔したてまつる。
 悪業は懺悔することによって悪業を為さなくなる。また重い悪業であっても一つ一つ軽くなってくる。善業はそれが善いことだと心から喜べば、いっそう善いことが増長する。報いはないのではなく、かならずあると、善悪の報いについて、お釈迦様はこのように教えられたのです。

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