| 釈迦大師道、三界唯一心、心外無別法、 心仏及衆生、是三無差別 正法眼蔵・三界唯心 (釈迦大師いわく、三界はただ一心なり、心の外に別の法なし 心と仏と及び衆生と、この三は差別なし) |
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三界唯心というのは、「華厳経」に由来するもので、「この三界に属するものは、ただ心のみなるものなり」ということで、すべての存在はただ自分の心(認識)によって作り出されたものにすぎないという。 三界とは欲界(欲望の世界)、色界(形態の世界)、無色界(無形態の世界)の三つの領域のことです。欲界とは性欲、食欲、睡眠欲、金銭欲、名誉欲などの欲望に悩まされる世界です。色界は欲界の欲望を離れた清らかな世界で、物質よりなる世界です。無色界は物質的な束縛を離れた高度な精神的な世界です。 私たちが経験している世界は、物理的に実在するように見えても、実はすべて自分の心が映し出した映像のようなもので、自分の心のあり方や認識によって生み出されている。あらゆる存在や現象は、すべて心のはたらきが生み出したものであり、心を離れて存在しないという。華厳経では、三界に属するものは、すべてただ心のみなるものなりと、説かれています。 三界とは、生きとし生けるものが迷い苦しみながら生死を繰り返す、欲界、色界、無色界の三つの生存領域全体をさします。この迷いの世界はただ自分の眼・耳・鼻・舌・身・意による認識(心)がつくりだしたということですから、自我意識による執着、我執がはたらきます。 三界のすべての現象は自己の認識(心)によってのみ存在し、心のつくりだしたものである。私たちがその存在を認識しているこの世界は、私たちの認識にもとずくところのもので、自分の心の現れに過ぎない。この考え方からすると、物事をどう捉えているかは各自の心の持ち方次第であり、人それぞれにより異なるという解釈にもつながりかねません。 |
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「三界唯一心、心外無別法、心仏及衆生、是三無差別」 (三界はただ一心なり、心の外に別の法なし、心と仏と及び衆生と、この三は差別なし) この偈文は華厳経によるもので、お釈迦さま一代の全力をあげての大説法とされ、仏一代の説法はこの言葉に尽きるという。 道元禅師は、三界とは全ての世界であり、真実が実現(現成)しているところである。如来の全体が余すところなく現れているといわれた。 如来の全体が余すところなく現れているとは、森羅万象のことごとくが仏心の現れであり、すなわち心なり。心とは余すところなく現れている如来の全体で、三界は仏心、ただ一心なりといわれた。 三界すなわち全ての世界はどのように現れているかということですが、衆生は迷妄とみる、菩薩は悟りとみるも、いずれもそのとうりに見ている、見られている、そのいずれもが三界で、今ここに実現している。 三界とは迷いの世界であり、悟りの世界でもあるということです。 「三界(全ての世界)はただ一心なり」とは、全宇宙、全世界のあらゆる現象は唯一心(仏心)の現れ出たものである。すべての世界は仏心、すなわち真実そのものの実現(現成)である。したがって心の外に法なし、心と仏と及び衆生と、この三は差別なしということです。 |
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今此三界、皆是我有、其中衆生、悉是我子
三界(全ての世界)は一心(仏心そのもの)である、一心以外のものはない。三界は一心であり、如来の悟りのすべてであるから、お釈迦さまは「この三界はみな我が有(所有)なり」といわれた。 三界はただ一心、心の外に別の法なしであるから、如来(釈迦牟尼仏)が心であり法である。ですから、お釈迦さまは、今此の三界はすべて我がものなり、その中の衆生(衆生も一心である)は皆わたしの子どもであると。三界は釈迦牟尼仏が親であり、衆生は釈迦牟尼仏の子であるといわれたのです。 今とは而今、この瞬間であり、それは、過去、現在、未来のすべてである。現前するこの世界のすべてが、如来(釈迦牟尼仏)であるから、存在する森羅万象のことごとくが、お釈迦さまの子です。三界も、過去、現在、未来も、衆生もことごとくが仏なりということです。 お釈迦さまは、現実がそのまま真であるから、この真実を本性とする仏と心と衆生とは区別のないものであるといわれた。私たちが生きているこの世界そのものが、そのまま真実の現れ、心すなわち仏心そのものです。ですから道元禅師は、心と世界は一つのものなり。それで私たちは、日々の生活の中で、この世界をありのままの真実として観ることが大切であると教えられたのです。 |
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| 仏心を覚醒して、仏らしい生き方をすべし お釈迦さまは、三界(すべての世界)は仏心、すなわち真実そのものの実現(現成)であるといわれた。現実がそのまま真であって、この真実を本性とする心と仏と衆生とは区別のないものである。そのままが真実であるから、ただ一心なり。心の外に別の法なし。心と仏と 即心是仏は心即是仏ともいいあらわされ、この心がそのまま仏であるという意味です。道元禅師は「即心是仏とは、発心(さとりをもとめる心をおこすこと)・修行・菩提(さとり)・涅槃の諸仏なり」といわれた。 諸仏とはお釈迦さまのことです。心と仏と衆生、この三は差別のないものであるから、衆生すなわち私たちも、お釈迦さまと同じ諸仏であるということです。 三界はただ一心なり。心(仏心)の外に別に法は無しと、お釈迦さまは説かれた。ですから自己の仏心を覚醒できるか否かが、その人の真の幸せへの分岐点となる。たとえ自己の仏心に覚醒できなくとも、すこしでも向上心を持ち続けて、生来にそなわっている自己の仏心を信じようとする限り、その人は幸せの道を違えることはないでしょう。 修証義に「この一日の身命は尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり、この行持あらん身心自らも愛すべし、自らも敬うべし、我等が行持に依りて諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり、然あれば則ち一日の行持これ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり」とあります。 日常の行住坐臥のすべてにおいて、自身の仏心を覚醒して、仏らしい生き方をすべし、ということでしょう。 |
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