2026年3月1日 第326話
             
大道が中道

    いままさしく仏印によりて、万事を放下し、一向に
   坐禅するとき、迷悟情量のほとりをこえて、凡聖
   のみちにかかわらず、すみやかに格外に逍遙し、
   大菩提を受用するなり」 正法眼蔵弁道話


仏道が中道

 一休さんとは、一休宋純禅師のことで、室町時代の禅僧です。「橋を渡るな」の札をみて、真ん中を歩いて渡ったという話で、とんちの一休さんとして知られています。一休さんは橋の真ん中を通って渡った。これは橋と端をかけたもので、ど真ん中を渡ったというお話です。

 この度の国政選挙では、中道(中道改革連合)という政党が結成され、その動向が話題になっています。この政党のいう中道とは、支持母体の一つである宗教団体がかかげる中道精神にもとずくとか、左でもなく右でもないところを中道政治という、などとした選挙直前のにわか仕立てのことであったからでしょうか、政治を動かす大きな力を持つという成果が得られなかった。

 中道といえば、極端にかたよらずバランスのとれたという意味合いの言葉としてのイメージが感じられます。けれども左や右という政治主張においては、中道といっても、左寄りの、もしくは右寄りでの真ん中となるでしょう。仏教でいう中道とは、仏道のことで、真理を体得されたお釈迦さまの道であり、さとりの境涯をあらわすものです。

 仏道でいう道とはさとりの境涯そのもののことです。ですから仏道とはさとりの実践です。修行とさとりは一つのものだから、行住坐臥すなわち、日々が仏道修行で、さとりを行じる、それが道です。その道が大道であり、中道です。一休さんが堂々として渡ったのはこの
大道という中道でした。それは端でもなく真ん中でもなく、仏道そのものでした。

中とは、道とは

 坂の下から見れば坂道は上り坂、坂の上から見れば下り坂です。登り坂は苦しくて、降り坂は楽だけれど、上り坂はすなわち下り坂でもある。人生にはいろんな坂がある、まさかという突然に現れる坂もある。死ぬしかないとの極論が自殺ですが、選択肢はいくつもあるはずです。弦楽器の絃は強すぎると切れてしまう、緩すぎると音が出ない、強すぎず緩すぎず頃合いに張るべし。さすれば、いい音が出る。これを中道という。

 人は、足りなければ不満に思い、足りてもなを満足しない、これを強欲といいます。年収180万円の壁がなくなっても、もっと上を求めるでしょう。少欲知足は中道です。
 高齢者のご夫婦で老老介護に疲れてしまい、一方を殺めてしまった、人情としては同情できる。菜食主義といっても、植物も生命体です。一つの生命は他の生命の犠牲の上に生きている。すべてのものに命あり、万物同根です。不殺生は中道です。

 この世に生滅変化しないものはなく、永遠不滅の固定した実体はない。したがって生老病死はさけられないことですが、人はこれを苦と感じてしまう。しかもその真実を歪曲し、ねじ曲げて解釈しているから無理が出て、苦悩を抱え込むことになる。
 この世は縁起による。さまざまな原因と条件(縁)が仮に和合して、すなわち関係性のなかで存在していることに心静かに思いをめぐらせば、自我欲望から逃れられないにしても、それをしかるべく抑制することができる。自我をコントロールすることができる、これが悟らない人間との違いであり、これを中道という。

 人は大小、軽重、長短、優劣で見たがるものです。中とは二つのものの中間でなく、相互に矛盾対立する二つの極端な立場、すなわち二辺から離れ、矛盾対立を超えた自由な立場です。道は実践を指す。苦行とは自我欲望を滅する修行であり、快楽とは自我欲望を満足させる世界のことです。苦行にあらず快楽にあらず、苦と楽、有と無の対立概念を離れ、両極端に近づかないことを中道という。苦行にも快楽にも、そのいずれにも片寄らず、心静かに精神集中するのが禅定で、お釈迦さまはこれを中道といわれた。

一切の二辺、妄りに自ら斟酌す。(信心銘)

 慧能禅師が寺の門にさしかかったところ、二人の僧が風で揺れる幡を見て言い争っている。一人が、あれは幡が動いているという。もう一人の僧は、風が動いているという。そこで慧能は非風非幡、風でも幡でもなく、あなたの心が動いているといった。

 人間の心は間違いだ、正しい、という二つの考えが絶えず争いがちです。なにごとにおいても二辺でとらえようとするから、ものごとの本質を見誤ってしまいます。二つの極端である二辺というとらえかたをひかえめにすべしということです。
 気持ちが動揺していると、心が乱れた状態になる。気持ちが動揺し、心が乱れていると、善いとか悪いとか、好ましいとか好ましくないとか、必ず二つの両極端が生じてしまう。気持ちを落ちつかせると、好きだ嫌いだという二辺でなく、一つのものとして受けとめることができる。

 宇宙飛行士の目で見れば、宇宙空間においては、上だ下だ、大きい小さい、優れている劣っている、多い少ない、善い悪い、などと二つの立場に分かれるものなどもとよりない。二辺でなく、絶対の真理の総体が宇宙で、それが法というものです。この宇宙には「不二なれば皆同じ、包容せずということ無し」(信心銘)です。人間の認識を離れて宇宙の尺度、すなわち法の尺度でものごとを受けとめることが肝心要です。

 「迷えば寂乱を生じ、悟れば好悪無し」(信心銘)気持ちが動揺していると、心が乱れた状態になる。気持ちが落ちつけば、善いとか悪いとか、好ましい好ましくない、などという区別もなくなります。人間の心は二つの考えが絶えず争いがちであり、これが心の病です。この分別心を捨て去れば、すなわち無分別の智慧を身につけることで道を違えない。鑑智僧燦禅師は信心銘を著わして、無分別による智慧を説かれました。

仏道を大道という、それが中道です

 人体は酸素や炭素などの元素で構成されている、これらは星の成分ですから人間の身体は小宇宙です。しかも縁により生じまた滅し、縁によるつながりにより存在している。縁起によることから、不変のものはなく、永遠不滅の固定した実体はない。無常であり無我です。
 自分が大切で、自分以外のものは問題にしないなどと、そう思いがちですが、自分も宇宙の一部であるから、「法界には、他無く自無し」(信心銘)。法界とは宇宙(法)のことです。自分とか他人とかという区別さえも宇宙にはもとよりない。人体は大宇宙の中の小宇宙です、道元禅師は、真実人体とあらわされた。

 宇宙の原則はたった一つで例外もない。ところが、人はそれぞれの好みに愛着して、自分の好みによって生きようとするから、宇宙の原則である法から逸れてしまい、生きずらさを感じることになる。
 インドには古来より、宇宙全体を「梵」(ブラフマン)、人間存在の本質を「我」(アートマン)とし、梵我一如にすれば人間は幸せになれるという考え方があります。本来一体であるのに、人間の欲望やはからいによって、二つに分けられてしまい、そこに人間の苦しみ悩みなどの不幸が生まれるとされた。

 これは好ましいものである、これは好ましからざるものである、とか、とかく人は両辺で、二つの極端でものごとを把握しがちです。とりわけ自分にとって損か得かで判断してしまうことがあまりにも多いようです。ところがそれは了見の狭い利己的なものであって、世間では利他的な考えのもとに行動しなければ息苦しさを感じることが多いのです。それはこの世の全てが縁による関係で成り立っているからです。

 お釈迦さまは宇宙の真理をさとられた。お釈迦さまが仏であり、おさとりが法であるから仏法です。お釈迦様の教えを仏教といい、教えの中身が法です。道元禅師は「いままさしく仏印によりて、万事を放下し、一向に坐禅するとき、迷悟情量のほとりをこえて、凡聖のみちにかかわらず、すみやかに格外に逍遙し、大菩提を受用するなり」このように正法眼蔵弁道話で説かれました。自己の心が動じなければ、宇宙(法)という心も、自己という心も、一つのものである。これが大道であり、中道であり、平等です。

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