| 行持道環 | |||||
仏祖の大道、かならず無上の行持あり、 道環して断絶ぜず、発心、修行、菩提、涅槃、 しばらくの間隙あらず、行持道環なり。 正法眼蔵・行持 |
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百尺竿頭にすべからく歩を進めよ 「百尺竿頭に坐する底の人、然も得入すと雖ども、未だ真を為さず、百尺竿頭に須らく歩を進め、十方世界に全身を現ずべし。」と無門関にあります。石霜和尚と長沙景岑禅師の問答です。石霜和尚の「百尺竿頭如何が歩を進めん」という問いに、長沙禅師は「百尺竿頭にすべからく歩を進め、十方世界に全身を現ずべし」と応じた。 竿頭とは物干し竿のことですが、竿頭を崖っぷちとすると、さらにその先に一歩を進めれば、踏み外して落ちてしまいます。高い竿をのぼりつめたところで、そこからさらに一歩をのぼり進めれば、もうつかまるものはなく、まっさかさまに転落して命を失ってしまう。いったいこれはどういうことを意味しているのでしょうか。 百尺竿頭とは長い竿の先のことですが、それは、きびしい修行を経て到達できる悟りの境地です。修行のすえに悟りを開いたとしても、修行の道に終わりはないから「さらに一歩を進めよ」ということです。百尺の竿の先端よりさらに一歩をすすめて、十方世界に自在に自己の全身を実現せよと長沙禅師はいいました。 悟りはすなわち修行です、修行が悟りですから、そこに踏みとどまってはいけないのです。「百尺竿頭にすべからく歩を進めよ」とは、仏道を極め尽くしたとしても、そこに踏みとどまってはいけない、頂点を極めたとしても、そこにとどまっていないで、さらに向上すべしということでしょう。 |
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全身全霊をもってさらに精進すべきこと
「百尺竿頭に一歩を進める」、百尺竿頭にすべからく歩を進めるとは、常識の世界にとどまらず、生まれてきたときから慣れてきたものの見方や考え方、思慮分別を切断して、思い切ってさらに一歩を進めれば、必ず悟りは開けるであろうということでしょうか。 「百尺竿頭に一歩を進める」とは仏道を修行しようとするならば、捨てがたい一切のものを思い切って捨ててしまう。断ちがたいもろもろの執着を断ち、自らの身体や命すら惜しむことなく、すなわち不惜身命で邁進せよということで、努力を怠らず、向上心をもち、さらに歩みを進めよということでしょうか。 「百尺竿頭に一歩を進める」とは、世俗世間に身をさらして、衆生を救う努力をすべしと長沙禅師はいわれたが、悟りの境涯にあって自利の頂上を極めそこに腰をすえることなく利他の誓願を発して、衆生済度の利他行に一歩を進めよということでしょうか。 「百尺竿頭に一歩を進める」ということについては、さまざまな解釈ができるでしょう。 「百尺竿頭如何が歩を進めん」の問いに、「百尺竿頭にすべからく歩を進め、十方世界に全身を現ずべし」と長沙景岑禅師は応じた。何ごとにおいても、全身全霊をもって、さらに精進すべきということでしょう。 |
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百尺竿頭に止まってはならない、終わりというものはない
山岳家は目指す山の頂点を極めて、その山の頂に立つと、さらに次に目指すべき山の頂に立つことを思い描く。次々と挑戦すべき山の頂がある、どこまで登っても終わりがない。 科学者は研究し、探求すべきものを発見できたとしても、もうその瞬間には、次に目指すべき研究の対象を見定めている。研究には終わりというものはない、疑問や課題は尽きることがない。極め尽くすことに終わりがないということは仏家も同様です。 努力して高みのてっぺんに行きつくことができたとしても、「これでいい」とそこで満足せずに、何かの奥義を極めるとは、行き着くところまで突き進んで、もうこれ以上はないというところをさらに極めよ、さらに努力せよということです。新しい世界へさらに飛躍するということです。 また、百尺竿頭に止まってはならないとは、悟りの境地に達したといえども、衆生を救う努力をしなさいということです。悟りの境地にとどまらずに、生死界に身をおいて、利他の行をなすべしということをも意味しています。山岳家も、科学者も仏家も、この世の中に生きているものとして、努力して高みのてっぺんをめざすことは、自己自身の修行に他ならないのですが、そのことは同時に、この世で他を救うことに通じているからこそ意義があるのでしょう。「百尺竿頭に一歩を進める」とは、利他の一歩でもある。 百尺竿頭に一歩を進めよとは、一般常識で判断してはならない、悟ったかのような錯覚にはまりこんで、修行生活を止めてはならない。全身全霊をもってさらに精進すべきことをおしえています。仏道を極め尽くしても、そこに踏みとどまってはいけない、頂点を極めても、さらに向上すべしということでしょう。 |
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「仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶ぜず、発心、修行、菩提、涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。」 仏祖の大道には、かならず無上の行持がある。それはめぐりめぐって絶えることがない。菩提心をおこし、修行して、さとりをひらき、涅槃に入る。その間には寸分の隙間もない。ただめぐりて続くのみである。道元禅師は正法眼蔵行持の巻の冒頭に、このように述べておられる。 仏道を求めんと発心して、修行し、さとりをえて、安楽の境地、涅槃に至るといえども、それら、すなわち、発心、修行、菩提、涅槃、はそのままに環の如くで、しばらくの間隙もない。であるから、さらに発心し、修行し、菩提を得て、涅槃に至る。このめぐりは間隙もなく、めぐりめぐりて続くのみである。それが仏道です。 道環して断ぜずとは、これが発心であり、修行であり、菩提であり、涅槃であるというものでなく、もとより、修行と証・さとりは一つのもの、修証一等であるから、発心、修行、菩提、涅槃は一つのものである。ですから間隙もなく、また、ただのめぐりの環というものでもない。行持とは発心、修行、菩提、涅槃、の連続そのものです。 「百尺竿頭に坐する底の人、然も得入すと雖ども、未だ真を為さず、百尺竿頭に須らく歩を進め、十方世界に全身を現ずべし。」とは、さとりに始めなく、修行に終着点というものはないということです。したがって、行持道環とは、発心、修行、菩提、涅槃の一巡りのものでもない。一生が修行です。さとりがそのままに修行です。日常生活が仏道であり、日常の行住坐臥が発心、修行、菩提、涅槃のそれぞれであるから、行持道環です。 日々の生活が行持道環そのもので、百尺竿頭に一歩を進め続けるということであり、十方世界に全身を現ずるということでもある。 |
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