2003年5月1日 |
第52話 独行道 くう 空の心には善があって悪はない、智恵があり、道理があり、道があって、 はじめて心は空である (宮本武蔵著 五輪書・空の巻より) |
ツバメの子育ては、生き餌を与えるその瞬間に、生きる術を教える 今年もツバメが巣作りにやってきました、古巣の修繕が終わったようです、やがて卵を産み、雛が生まれる。ツバメのカップルはとても仲が良い、去年来たツバメのつがいなのか、ここで生まれ育ったツバメなのかと、つい思いをめぐらしてしまいます。 ツバメの巣作りの条件は、蛇やカラスが襲ってこないところに巣をつくることです。いつも感心することが二つあります、一つは巣を作るのに土と枯れ草をうまく使った左官技術であり、そして今一つは親鳥が雛に生き餌を与える素早い動きです。 雛の成長にともない、ブヨのような小さな虫から、巣立ち間近になるとトンボまで、すべて生きた餌を瞬時に親鳥は雛に与えます。親鳥が生き餌を雛に与える瞬間に、子ツバメは自分の力で虫を捕獲できる訓練を受けているかのようです。雛は巣立つや、その日から自力で空中に飛ぶ虫を捕って生きていかなければなりません、厳しい自然環境に生きていく術を親鳥は早くから、雛に教えているのでしょう、ツバメにとっての子育ての基本は、自立自活のようです。親鳥から雛への生き餌の受け渡しの一瞬に、やがて群れをなし大海を越えて南へ渡って行くことなど、生きる術の一切を教えこんでいるのでしょうか。 単独か群れをなすかのちがいはあっても、いかなる動物も自立自活する能力を身につけていなければ生きていけません、だからツバメにかぎらず動物の子育は、独立独歩の能力を養うことが基本のようです。人間もこの点においては同じですが、およそ人間以外の生き物には、欲というものがないから、生きていく上で「善悪」の判断はいらないけれど、人間は貪欲だから、社会的生活をする上で、 「善悪」をわきまえる能力を身につけておかなければならない。 |
21世紀に生きる人間は、多様な「善悪」の判断能力を身につけたい 高校教諭が新聞紙上にこんな内容のコラムを載せていました。「していいことと」「してはいけないこと」の区別がつけられない子供が多い。判断の基準は「善悪」ではなく、「自分の周りにいるみんながしているかどうかだ」と、それは、日本の子供が、家でも学校でも「ああしなさい」「こうしなさい」と言われるままに「受け身」で、自分できちんと考えるゆとりを与えられずに育ってきたためだという、遊びも受け身で、創造性も自分で考えることも必要としないからだそうです。 このようにして育った子供たちも、自分の考えで行動しなければならない時が来る。そのとき周りを見渡して「善悪」を問うことなく、周りの仲間と同じことをします。「みんながやってるから」と言う理由だけで、悪の道にはいってしまう子供も多い。犯罪を犯して摘発されても、みんながやっているのに、自分だけが運が悪いと主張する子供、我が子の悪行を更生させる能力をもちあわせていない親も多い、このような内容のコラムです。 子育てにおいて、個性や独創、進取の気風といったことを排除する親や、子離れをしない親に育てられた子供は、自分で善悪の判断ができないから、周りの人々がするのと同じことをします。社会的生活をする上で「善悪」をわきまえる判断能力は不可欠であり、子供の成長過程で躾として親が養うべきものです。人は生きていくあらゆる局面において、この「善悪」をわきまえる判断能力が常に試されます。いじめは、この判断能力が養われず、十分に具わっていない土壌に生じる。 21世紀は民族や宗教、さまざまな価値観を異にする人々と共に、地球規模で生きていかなければならない、「善悪」の判断については、人類共通の普遍的なことから、価値基準がちがうために、見解の相違が生じるものまでありますから、多様な「善悪」についての判断能力を身につけておくべきでしょう。 |
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仏法と世法は人の身と心、一つ欠けても立たぬものなり 武蔵に精神的影響を与えた沢庵禅師は「仏法と世法は人の身と心、一つ欠けても立たぬものなり」という言葉を残しています。 武蔵は五輪書・空の巻において「真の道を知らないうちは、仏法にせよ、世間の法にせよ、自分だけは正しいと思いこみ、よいことだと考えているが、心の真実の道をもって、世間の基準にあわせて見ると、その人、その人の心のひいきや見方のゆがみによって、正しい道に背いているものである」と、自戒をうながしています。人は、なにごとにも自分流の価値観で対処しょうとする、我欲を押し通そうとするから、「善悪」の判断を間違え、迷いと敗北にいたる、よく心得ておかねばならないことです。 兵法の基本姿勢として「心意二つの心をみがき、観見二つの目を研ぎ澄まし、少しも曇りがなく、迷いの雲の晴れた状態こそ、真の空であると知るべきである」と、武蔵は言う。 心意二つの心、おだやかな心すなはち智と、躍動する意すなはち気力とを充実させる。世の中のことや、自分の目前の有り様を正確にとらえるために、観見自在の能力を養うこと、観、すなはち全体あるいは十方をよく観る、見、すなはち一つのものを正確に見る、見抜く力を体得すべきだと言っています。 武蔵は、勝つための太刀の構え、研ぎ澄まされた攻守自在の身の処し方を探求し、身も心もよく整えることを片時も怠たらず、戦いの生死の瞬目の間にも心の安寧を得ようとしました。武蔵の闊達自在の太刀の構えに一分の執着もありません、迷いの雲が晴れ、身と心に真空の妙智が具わり、するどい眼光の奥には、慈悲の眼差しがあったという。 武蔵は「独行道」を自らの生き方とした、生涯妻をめとらず、栄耀栄華を極めず、栄達の道を得ることもなかった、一切に執着がないから身一つの生活であった、あたかも人生一代が行雲流水の如き生き方でした。たしかに一般人とは異なる生き方を貫いた人物であったが、特異な人間の生きざまだとは思えない、現代を生きる私たちにとっても、時代や世情のちがいを超えて、共感するものがあります。 |