第70話 2004年11月1日 |
葉落帰根 蕪村の句に「西吹けば東にたまる落葉かな」とありますが、秋に葉が落る、 葉落帰根 はおちてこんにきす 木の葉は散って根もとの大地に帰る。 |
大絶方所 だいにはほうじょをぜっす 春夏秋冬の季節のめぐりだけでなく、大海の潮の流れや大気や地核の動きにいたるまで、大自然のめぐりは途方もなく大きいものです、それはどんな空間場所であろうとも、どんな生き物をもすべて包み込んでしまいます、今年は例年になく台風の襲来が多くて各地に大きな災害がおこりました、そして新潟県中越地震と、自然の脅威をことさらに強く感じます。 この世の森羅万象はすべて自然(じぜん)のめぐりそのものですが、自然(じぜん)のめぐりによって、植物や動物などのさまざまな生命体が存在しています、それらの生命体はみな生まれて死んでいきます。 この世の自然なもの山川草木、森羅万象はたえず変化して一時も同じ姿をとどめていません、すなわち無常です、そのものだけが変わらないというものは何一つないということです。ことごとく変わっていく森羅万象、その一つとしてあなたも私も生まれてきた、そしてその一つとしてあなたも私も死んでいく。どんなに生活が豊かになり医療が進んで、長寿社会になっても、人の生まれも死も無常の世ですから例外はありません。 この世の生きとし生けるもの、植物でも動物でも、あるいは目に見えない微生物などの小さな生き物であっても、どんな命でも自然(じぜん)のめぐりで生まれるべくして生まれてきたものばかりです、そして死ぬべくして死んでいく。自然(じぜん)のめぐりですから、自分の身体であるけれども自己の意志にかかわらず、生き死にしていくことを意味しています。 |
寂然昭著 じゃくねんとしてしょうちょす 森羅万象の自然(じぜん)のめぐりで生まれ死んでいく命ですから、この世に不必要な命などありません。 すべての命は連鎖すなわちつながっており、すべての生き物がすべての生き物の命を互いに支えあっている、どんな生き物でも他の生き物にとって必要不可欠です。 どんな人でも自然(じぜん)のめぐりによってこの世に必要だから生まれてきたのです、かけがえのない命です、だから他人が人の命を奪うことはできません、自らが命を絶つ自殺も許されるものではありません。この世に生きてるということは、自分のために生きてるのではなく、他のために生きているのだという、この根本原則があります、この根本原則が理解できないほどに人間は自己中心の生き物です。 どんな生き物でもその命は自然(じぜん)のめぐりによって親のもとに生まれた命です。子供を虐待する親がいますが、生まれた時から子供は親の所有物ではありません、母親は我が身をけずって命を育み、あふれる愛情のもとに産み育てるから我が子はかわいいのです。かわいいはずのわが子を殺める親がいる、どうしてそんなことが起こるのでしょうか。 逆に子が暴力をふるって親を傷つけたり殺したりすることがありますが、命を与えてくれた親への感謝の気持ちが現代人は希薄になったのでしょうか。親に対する子供の気持ちの中に、親が子を育てるのは当然のこと、子は親の世話を受けるのは当たり前だから、なんで親に感謝しなければいけないのかと、成人してもこのような気持ちでいる若者や、親に対する感謝の思いと親をいたわる気持ちのない現代人は多い。 大自然の因と縁、自然(じぜん)のめぐりによって森羅万象は生まれ滅しています、人も同じです、子は父母の愛情で育まれるのですが、同時にその命は自然(じぜん)のめぐりによる命です。一切の生き物は他を生かし、他に生かせてもらっているという、自己を超えたとらまえかたをしなければ、親子の範囲だけの狭い了見ですべてを判断してしまいます、そしてほんとうの利他の生き方を見失ってしまいます。 |
肯心自許 こうしんみずからゆるす 脳梗塞で倒れてから、手足腰が不自由になり、口で食べ物を咀嚼することもできなくなり、直接に胃へ栄養を補給して3年半の間、病院のベットで寝たきりの状態で生きてこられた方が先日に亡くなられました。92歳の男性ですが、老齢になられてもなをスポーツマンでした、強靱な心肺が寿命を支えたのでしょう。他人の目からは生活する人でなく、ただ生存しているだけの人としか見えないでしょう。でも心肺や臓器の機能が正常にはたらき3年半もの間、命を生かしめたのです。自らの意思により身体の機能を働かされたというより、自分という生命体が自らの臓器の機能を働かしてきた、まさに人は生かされているということでしょう。 自然郷という言葉がありますが人為のおよばない天然自然の本来の面目のことです、自己を超えたところで人も生かされています。日常は息することさえほとんど自分で意識していませんが、肺は自然に呼吸し続けています、心臓も自らの意思で動かしているわけでもないのに睡眠中でも止まることもなく動いてくれています。臓器も細胞も自己の意識にかかわらず生命体が生命活動しています。 人は自分の身体である生命体に正直に自然な生き方をすべきところ、貧瞋癡(むさぼり・いかり・おろかさ心)の三毒の煩悩により不自然な生き方をしているから、自然の生き方に逆らってストレスのために自ら苦しみ病に倒れたり、命を縮めてしまったりするのでしょう。心肺は自分の意思に関わらないで自己本来の生命体として生命活動をしています、人は自分の力で生きているようで生かされているのです。けれども無知な人間はあたかも自分が自分の力で生きていると錯覚しているだけです、だから時として自己が己の生命体を無視すると臓器は反発して病に倒れるのでしょう。 3年半もの長い闘病生活を人は気の毒がられるけれども、90歳を超えて生きられた3年半は人生にとって安らかな最も穏やかに自己本来の生命活動に生きられた時期でもあったのでしょう。 自分で自分の本来心(自己本来の生命活動)に合点がゆけば、貧瞋癡(むさぼり・いかり・おろかさ心)の三毒の煩悩による不自然な生き方をある程度は自制できるはずです。 |
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大絶方所・寂然昭著・肯心自許・天真而妙・・・・・いずれも洞山良价禅師の言葉です 洞山良价禅師・・・・中国唐代の禅僧 807〜869 のちに弟子の曹山と連称して曹洞宗の開祖と仰がれる |