第74話    2005年3月1日
        おかね
        
       欺(あざむ)かないものだけが、真実なのではない
       他の人びとを、もっぱら利益(りやく)するものが、真実である 
               (ナーガールジュナ Nagarjuna:龍樹 西暦50年から150年頃

お金絡みの事件

 初詣で混雑する神社や寺などで、どさくさにまぎれて暗がりで使われた偽札にはじまり、紙幣や硬貨の偽造、「振り込め詐欺」、そして川に捨てられていた多額の札束、銀行カードの偽造など、年明けからお金絡みの事件が続きました。

 とりわけ偽札事件が多発しました、釣り銭をねらう偽の一万円札が出回った、新札への切り替え時をねらった旧札の偽造事件です郵便局の現金自動預払機(ATM)から偽の新五百円硬貨が大量に見つかった、偽造硬貨がATM機で預け入れらるぐらいですから素人にはすぐに判別できない精巧さです。

 大きな瓶に五百円玉をためるへそくり貯金で、いっぱいになる度に一万円札と両替している人がいますが、ひょっとして…と五百円硬貨をまじまじと見つめた人も多いのでは。

  年明けから あまりにも多くの偽札が作られ使われたからでしょうか、出来心かもしれないけれど、こともあろうに学校の先生がコピー機で偽札をつくって使ったという、そして名古屋市内の市立中学校に通う男子生徒2人(いずれも15歳)が偽の旧5000円札1枚を出し、120円分の菓子と釣りを受け取ろうとしたので、偽造通貨行使の疑いで逮捕された。その生徒はパソコンでどれだけ精巧にお札が作れるだろうかと試みたところ、使ってみたくなって偽造紙幣を使用したとのことです。


偽札

 貨幣の偽造はいまに始まったことではありません、世界で最初に紙幣を発行したのは中国で、約八百年前の紙幣には「偽造は斬刑」と書いてあったそうです。また偽造者を通報してきたら多額の賞金も出たそうですから、貨幣の歴史は偽札との知恵比べの軌跡です。

 偽札を作ったり、偽札と知りながらそれを使用した場合には無期又は3年以上の懲役と法律で罰せられます。大量の偽造通貨行使の容疑者が警察に検挙されたことによって、偽札の流通は少なくなってきたようです。

 振り込め詐欺も背後にある大がかりな犯罪組織が摘発されました、川に捨てられていた多額の札束は首尾よく大金を盗み取ったけれど、手にした大金を手元に置いておくのが恐ろしくなった窃盗事件の犯人の一人が捨てたものと判明しました。

 偽札事件などお金絡みの事件や出来事が続きましたが、いずれも件数は減ってきたようです、犯罪組織集団が関わっていることが多いようですが、偽札づくりやこうした事件が多発する社会的背景があるのでしょうか。


罰当たり

 「神社、仏閣で偽札を使うなど、罰当たりもはなはだしい、神様や仏様も顔をしかめておられるでしょう」と、新聞記事にありました、額に汗して得たお金ではなく、パソコンで作った偽札を初詣の神社や寺で縁起物や露店の代金として使い、釣り銭を利益(りえき)とするこそくな犯罪に、神仏のご利益 (りやく)はないでしょう。

 「振り込め詐欺」は、言葉巧みに人をだまして身内を思う心情をもてあそび、高額な金を送金させて利益を得る、まことに卑劣な犯罪です。しかし世の中お金次第で、ものごとはすべてお金で解決するという考えを持つ人が多いからでしょうか、善良な人の側にもこうした詐欺につけこまれる心のスキがあるのかもしれません。

 お金は使われ方によって価値を持つけれど、使い方がわからなければただの紙切れです、また使い方を誤ると凶器にもなる。使い方を知らない者にとって大金や財があっても誰かに盗られないだろうか、誰かに狙われていないだろうかと心配で夜も寝られず、痩せ細ってしまう人もいるでしょう。お金を浪費して身を滅ぼしてしまうこともあり、身内の醜い争いのもとにもなりかねません。

 昔の親はお金を得ることにおいても、使い方においても、間違っているならば「そんなことをすると罰が当たる」と子どもをしかったものです。小学生に3000円のお年玉をあげたら「なーんだ」という顔をする、少子化の時代では、与える対象の子供の数が減り、1人1万円程度が相場になっているそうです、お金の値打ちのわからない子どもにはケチなおじさんとしか映らないようです。


お金の価値


 お金の価値はつくられるものです、額に汗して手にするものです、
かつては社会が教えてくれました、サービス産業や情報産業が今ほど発達していなかった時代には、若者のアルバイトといえば建設業や製造業などの手伝いでした、欲しいものを手に入れるためには土や油にまみれてコツコツと働くしかなかったから、経済活動に現実感が伴っていました

 しかし
バブル経済以降、土地や株の売買は投資マネーの動きとして一般化し、ITによるバーチャルな商売も幅を利かせ始めました。一夜にして巨万の富を得る「勝ち組」がいる一方、破産に追い込まれる「負け組」もある。某企業間の経営権争奪をめぐって株の売買合戦が巷の話題になっていますが、億単位のお金の動きには人間の体温は全く感じられない、人の目には見えないところで、冷たくてどす黒い”おかね”の固まりが漆黒の闇に飛び交っている。

 働くことを通して人は社会的に共生していると、だれもが思っていたから、ものづくりにも技と心と人のぬくもりがありました、ものの売り買いにも心のふれあいがありました、けれども経済合理性のもとにこの価値観さえも否定され、働くことの意味やお金のありがたさが見失われてしまったようです。

 人は生きるために働き、働くことによって暮らしていける、しかし働くことはコストの一つにしか値しないとなると、人は生きる意味すら見失ってしまう、人情やいたわり、やさしさの心がなくなり、すべてがお金で計られる世の中になってしまったのでしょうか、お金絡みの一連の事件や出来事が多発するのは、社会のゆがみの深刻さの現れでしょうか。
 「そんなことをすると罰が当たる」と子どもの頃にしかってくれた亡き父母や祖父母の笑顔を思い浮かべながら、春彼岸の一日、家族揃って墓参りをしたいものです。


 

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