仏生迦毘羅 ぶっしょうかぴら お釈迦さま生誕の地、ルンビニー(ネパール)
今から二千五百年前にヒマラヤ山麓のカピラバストウ(現代はネパール国内)というところにあったとされる小国の釈迦族の王子として、のちのお釈迦さまである、シュッダールタがお生まれになりました。お母さまのマーヤーさまは王子誕生の七日目に亡くなったとされています、お釈迦さまはこの世に生を受けられたのですが、生後まもなく母親と死別するという悲しい人生の始まりでした。
4月(5月)8日はお釈迦さまの誕生日です、花御堂を設け誕生仏をまつり、甘茶をおかけして祝います。全てのものは生まれながらに、なにものにも代えがたい尊い命をもってこの世に生まれてきました。この世のすべての命はみな尊い、お釈迦さまのお誕生を祝う花まつりは、生きとし生けるもの、すべての命の誕生を祝い、そして命を尊ぶおまつりでもあります。
私たちは幸運に恵まれて、人としてこの世に生を受けることができた、道元禅師は、人身得ること難しと、人に生まれてきたことは、善生最勝の生を得ることができたのだと言われた、だから、「最勝の善身をいたずらにして、露命を無常の風にまかすることなかれ」と教えられました。
やがて滅んでゆくという真理を理解せずして、たとえ百歳まで長生きしても、
生滅の真理を知っている人が生きる一日には及ばない。 「ダンマパダ」
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成道摩掲陀 じょうどうまかだ お釈迦さま成道の地、ブッダガヤ(インド)
のちのお釈迦さまである、王子シュッダールタには、ヤショーダラー妃との間にラフーラという子もあったのですが、29歳の時出家者となられたのです。城には東西南北に門があり、門を出ようとすると門前に老人・病人・死者を見た、それでもう一つの北の門から出て、出家求道されたという四門出遊の話が伝えられています。一説には出家の動機を、部族間争いが絶えず、自らが王位を捨てることによって、一族に戦火がおよばないようにとの願いのもとに城を出られたとも伝えられています。
お釈迦さまは出家求道の導き手を求めて各地をたずね歩き、さまざまな修行をされました。痩せ細り生死の境をさまよわれた果てに、天地より授かった尊い自分の命を大切にしなければいけないことに気づかれて、人の本来の生き方に安楽の境地を求めるべく、苦行をお捨てになった。
ニレンゼン河で身を清め村娘のスジャータの乳粥の供養を受け体力を回復されたお釈迦さまは、ブッダガヤの菩提樹の下で坐を定められました。12月8日はお釈迦さまが菩提樹の木の下で、さとりを開かれたので、成道の日としています。
お釈迦さまは、生きとし生けるもののみならず、山川草木、木っ端から石ころにいたるまで、一切のものが同時にありのままの姿で現れ輝いていることに、深く感動されたのです、この世の真実のありさまを、そのままにごらんになられたのです。
人は宇宙の真実の中に生きていることに、現前の世界が真実の光明に照らされていることに気がつかないから、誰もが自己に執着して、悩み苦しんでいます。人も宇宙の真実のままに、すなわち本来の自己であるありのままの自然体に生きればいいのに、さまざまなことにとらわれ、迷い道に日々をおくり、悩み苦しんでいます。
好ましいものも、好ましくないものも、ともに捨てて、
何ものにも執着せず、こだわらず、諸々の束縛から離脱しているならば、
かれは正しく世の中を遍歴するであろう。 「スッタニパータ363」
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説法波羅奈 せっぽうはらな お釈迦さま最初の説法の地、サルナート(インド)
お釈迦さまはおさとりになった宇宙の真実である「法」を人々に説くことを心に決められ、サルナートの鹿野苑において、苦行をともにしてきた五人の修行者に最初に法をとかれました。五人は、お釈迦さまと法(教え)に帰依されたのです。
宇宙の真実である「法」とはお釈迦さまだけの個人的体験から生まれたものでもなく、啓示(神が人間に真理を教え示すこと)によるものでもありません。宇宙の真実である法がお釈迦さまを悟らせたのです、ご自身が真実の光明に照らされている仏であることをお悟りになられた覚者「仏」です。宇宙の真実である「法」のもとに、お釈迦さまとこの五人の修行をするものの集まり僧伽(そうぎゃ)「僧」が形ずくられました、ここに「仏」と「法」と「僧」の三宝、すなわち仏教が成立したのでした。
お釈迦さまは弟子達と修行をともにされ、80歳で命尽きる間際まで、伝道の旅を続けられたのです。2500年前に驚くほどの長寿であられたお釈迦さまは、生きることがそのまま悟りでありご修行でした、そして他を幸せにしてさしあげたいという願いの実践の日々でした。
お釈迦さまは80歳という当時としては驚異的な長寿者であられた、私たちは今、お釈迦さまと同じように、長生きができる時代に生きています、お釈迦さまの生き方をお手本としたいものです。修証一如、すなわち修行と悟りは一つのものですから、修行がさとりの実践です、日常の生活をさとりの実践である修行の日々としたいものです、そして、他を幸せにしたいとの願いを発して、身近なことからでも、自分のできることを実行する、日々そのように生きていきたいものです。
怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。
名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、
苦悩に追われることがない。 「ダンマパダ」
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入滅拘?羅 にゅうめつくちら お釈迦さま入滅の地、クシナガラ(インド)
2月(3月)15日はクシナガラで亡くなられたお釈迦さまのご命日です、涅槃図をかけて、お釈迦さまの最後の説法がまとめられたお教である「遺教経」を読誦してご入滅をしのびます。
菩提樹の下で坐禅をしてお覚りになられたお釈迦さまの境地を涅槃といいます、涅槃は悩み苦しみのない境地です、涅槃とはニルバーナの音訳で、煩悩の炎を吹き消すという意味ですが、命が滅するということでもあります。
人間には他の生き物にない悩みとかストレスがある、なぜ悩み苦しむのか、それは、自己の欲望に執着して、貧瞋癡(むさぼり・いかり・おろかさの心)の三毒の煩悩をどうしても捨てきれないからです、四苦八苦して心に深い傷を持ちながら生きている人や、深刻な悩みの憂鬱から抜け出せない人も多いようです、この三毒の煩悩を滅除した、悩み苦しみのない状態を涅槃といいます。
悩み苦しみがなければ人は幸せです、悩み苦しみのない生き方をめざすのがお釈迦さまの教えです。お釈迦さまは、いつも背筋を真っ直ぐにして正しい姿勢で生きていきましょう、ゆっくりとした吐く呼吸法によって、おだやかな生き方を心がけましょうと教えられました。正しい姿勢でゆっくりとした吐く呼吸法を日々の生き方とするならば、自ずと悩み苦しむことのない生き方がだれにでもできそうです、それが健康で長生きにもつながるのです。
足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、
諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、
諸々のひとの家で貪(むさぼ)ることがない。 「スッタニパータ 144」
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