第95話      2006年12月1日

               仏の御命

    この生死は即ち仏の御命なり。これをいとい捨てんとすれば、即ち仏の
   御命を失わんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも仏の
   御命を失うなり。 仏のありさまをとどむるなり、いとふことなく、したふこと
   なき、このときはじめて仏のこころにいる。 道元禅師(正法眼蔵・生死)
             
   

命は支え合ってるから、生きている


 三千万種の地球生命は共通する遺伝子情報をもち、地球の生き物は食物連鎖によってすべてが関係しています、食物連鎖はおおまかに生食連鎖と腐食連鎖とにわけられます。森羅万象の自然のめぐりである食物連鎖で生まれ死んでいく命ですから、この世に不必要な命などありません。
 すべての命は連鎖すなわちつながっており、すべての生き物がすべての生き物の命を互いに支えあっている、どんな生き物でも他の生き物にとって必要不可欠です、人間も例外ではありません。生きるために他の命を食す、 他の命の犠牲の上に成り立っている命、食物連鎖は全生命に共通するが、絶滅の危機にまで他の種を追いやってしまうのは人間だけです。

 生き物の死は同時にそれが他の生き物の命を支えることになる、他の命が他を支え生かしめている、弱肉強食などということは自然界にはない、なぜならば一つの命が他の命になる、一つの命の死は他の命の生を意味するからです。命はみなつながっている、どの命が欠けても他の命が生きていけなくなる、どの命もかけがえのないもの、どの命もどんな小さな命でも生き物はみんなこの世に必要だから生まれてきた。

 三千万種の地球の生き物の中で人間の脳の進化は著しい、人間は他の生き物にない能力を持っている。自意識が他の生き物に比べて格段にあるから、他をいじめたり、自分で死を選ぶという行動をとる。
 生き物の中で自ら命を絶つ、自殺する生き物は人間だけです。そして、自然界では一つの命が他を生かせるから、自然界の摂理としていじめ構造はない、いじめのあるのは人間社会だけです。

 大いなる自然界に生を受けた生き物たちはすべて他を生かしあっている、どんな生き物でも自殺したり、他をいじめたりしない。森羅万象の自然のめぐりである食物連鎖で生まれ死んでいく命ですから、どんな命も大いなる命の循環に生きている。
 どんな生き物でもその命は自然のめぐりによって親のもとに生まれた命です。どんな人でも自然のめぐりによってこの世に必要だから生まれてきたのです、かけがえのない命です、だから他人が人の命を奪うことはできません、自らが命を絶つ自殺も許されるものではありません。

自分の命は仏の御命です、自分のものではない

 人体は60兆個の細胞集合体であり、 本人の都合や思いに関係なくその細胞は生死しています。 自分の体は 、自分の意思で生きているようであって、腹が減るのも、屁が出るのも、爪や毛が伸びるのも 、老いていくのも、自分自身ではいかんともしがたいものです。自分の体であっても 、自分で勝手に生きられるものではない、 これが命というものです 。そして新しい細胞が生まれるために、一方で細胞が死んでいくというめぐりあわせがある。

 自分の命は自分のものであると勝手に解釈してはいけない、自分の命は自分のものでないのだから、自分で自分の命を絶つことは許されない。生かされている命です、恵まれてこの世に生を受けた命です、自分で生きているようで生かされているのが私たちの命です。
 そして、この世に生きてるということは、自分のために生きているのではなく、他の命のために生きているのだという、この根本原則があります、この根本原則が理解できないほどに人間は自己中心の生き物です。

 子供を虐待する親がいますが、生まれた時から子供は親の所有物ではありません、母親は我が身を削って命を育み、あふれる愛情のもとに産み育てるから我が子はかわいいのです。かわいいはずの我が子を殺める親がいる、どうしてそんなことが起こるのでしょうか。逆に子が暴力をふるって親を傷つけたり殺したりすることがある、命を与えてくれた親への感謝の気持ちが現代人は希薄になったのでしょうか。

 大自然の因と縁、自然のめぐりによって森羅万象は生まれ滅しています、人も同じです、子は父母の愛情で育まれるのですが、同時にその命は自然のめぐりによる命です。一切の生き物は他を生かし、他に生かせてもらっているという、自然の摂理としてとらえなければ、親子の感情の範囲だけの狭い了見ですべてを判断してしまいがちです。

自殺は己の仏の御命を殺すこと、いじめは他の仏の御命を殺すこと

 子供の間でのいじめは昔からありますが、最近のいじめの程度は陰惨なものであり、いじめを止めさせようとする子供達の間での抑制作用も働かなくなっています。社会生活のあり方がわからない年齢での犯罪や、命の意味を十分に認識していない子供の自殺はいたましいものです。

 子供のいじめ行動の背景には家庭環境に問題があるはずです、すなわち親の子育て状況がいじめの行動を生み出しています。日常のさみしさや不安、愛情の欠如や欲求不満といったものがいじめ行動に走らせるのでしょう。いじめの起こっている場が学校であれば教育現場の教師がいじめ行動が無くなる方策を講じるべきでしょうが、多くのいじめの根源が家庭にある以上、健全な子供の育成を親がはたさねばなりません。いじめは犯罪につながることから、社会的秩序も子供に教えていかなければいけないでしょう。

 命の尊厳を教えるべき先生が、引責と称して自殺をはかることは、言語道断であり、子供の教育に少なからず悪影響を与えるという自覚ができないような教師は教壇から去るべきです。
 就業の現場では人格を尊び人間を雇用するという考え方がなくなってきました。労働をコストとみなす経済合理至上主義、当面の実績評価成果主義、金融絡みの事柄などから心身に支障をきたし、精神障害に悩む人々が多い、精神的苦悩を脱却できないで自殺する人が年間に3万人を超えています。

 現代人の多くが日常的にストレスを感じている、 悩み苦しんだりして心が病み自殺する人が多い。また家庭内暴力・虐待、人命を軽んじる行動など、命の輝きを見失ってしまった人々がとても多い。
 自分の命の輝きを喜ぶこともなく、他との命の支えあい、生かしあい、万物生命との命のつながりに心躍らせることもないのでしょうか。現代人は 命のつながりがなく孤独である、何故そうなったのか、命に触れ、命を尊び、命に生かされ、命を感じて成長していない人が多いからでしょうか。

自己に執着することなく、仏の御命のままに生きる

 お釈迦様は6年にもおよぶ難行苦行のはてに菩提樹の下で静かにお坐りになっていた、そして12月8日の明けの明星の輝きに目をとめられた時、この世のすべてが光り輝いていることに感動され、「我と大地と有情と同時に現成す、山川草木悉皆成仏」と心で叫ばれました。この世の一切のものが仏の御命であり、そしてすべての仏の御命が互いに輝きあっていることに、深く感動されました。

 心の悩み多き人々が人間社会を堂々巡りしている、人間社会にしか生きる空間がないのでしょうか。現代人には人間社会しか見えていない、山川草木、万物生命を見る広い視野をなくしてしまったのでしょうか。
 大地には小さな花や昆虫が、生命の営みをみせている、生死を憂えることもないから、生老病死の悩みもない、金も名誉も、もとからこの大地にはない、悠久の生命の生死の流れがあるのみです。人間だけが欲のために人間社会という煩悩の底なし沼にはまり込み、自分の足下すら見えなくなってしまっている。

 生かしあうのが生きものの姿です、どんな生き物も、命を生かしあってるから生きていける。人をいじめたりすることは、他を生かそうとしていないのです、他をいじめることは自分を生かしていないことなのです、他をいじめることは自分が生きていけないことだということがどうしてわからないのでしょうか。自分が幸せになりたければ他を幸せにすることです、他をいじめても絶対に自分が幸せになれない、他をいじめることは自分を不幸にすることです、早くこのことに気づきたいものです、もっと大きな命の循環に気づき、命の大いなる循環に生かされていることに気づきたい。

 人はだれでも仏の御命としてこの世に生まれてきた、仏の御命なればこそ自己という仏の御命を尊び輝かせたい、他という仏の御命をも尊び共に輝かせたい、自他共に仏の御命なればこそ、いじめたり、殺めることなどできないはずです。
 自殺は己の仏の御命を殺すことです。もっと自分を見つめ直して、もっと自分という命を輝かせましょう、もう二度と人間に生まれてくることはない、もう二度と私に生まれてくることはない、たった一度の人生をどうして喜び楽しまないのでしょうか。ちっぽけな自己の殻にとらわれることなく、身も心も放下(ほうげ)したとろにはじめて仏の御命が輝くでしょう。

戻る