第97話  2007年2月1日
         節分   福は〜内! 鬼も〜内!

         強欲(ごうよく)にたとうべき烈(はげ)しき火はなく
         怒りにくらぶべき強き握力(あくりょく)はなく
         愚痴(ぐち)になぞらうべき細かき網はなく
         愛欲にまさる疾(はや)き流れはなし  [法句経251]

節分


 季節の始まりを示す立春、立夏、立秋、立冬の前日はいずれも節分です。節分とは「季節を分ける」ことから「節分」といいますが、現在では節分といえば立春の前日だけを指すようになりました。特に立春の前日には厄払いの行事が各地で催されます。
 寺社の多い京都では、さまざまな節分行事が行われています、「四方詣」といって、東北の吉田神社、東南の稲荷大社、西北の北野天満宮、西南の壬生寺の四社寺へ参詣する風習もあります。

 節分・立春の前日に鬼打ち豆をまき、鰯の頭を柊の枝にさし戸口につけ呪いとする風習もあります。農耕が主であった大昔は、旧暦の大晦日と春を告げる節分とは、ほぼ同時期であり、年があらたまり、万物が甦る春の訪れを告げる日である節分に、「邪気を払い、今年も元気で過ごそう」との思いから始まったのが、節分の豆まきです。

 節分の豆まきについては、中国から渡来し宮中で行われていた「追儺(ついな)」の行事と寺社が邪気をはらうために行った「豆打ち」の儀式が融合したものだともいわれています。おにやらい・追儺(ついな)と称して、豆打ちで鬼を追い払う行事です。鬼を追い払うのは石ころとか、弓矢や鉄砲玉でなくて鬼打ち豆とか福豆 と呼ぶ豆(煎り豆)であるところがおもしろいです。豆を打つ音で見えない邪を払ったのです、「福は内」「鬼も内」と豆をまく寺もあります。

 今日では、幼児でさえも鬼の実在をあまり信じませんが、大昔の人々は、さまざまな恐ろしい鬼が実在すると信じていたようです。節分の鬼にかぎらず、鬼の喩えが多いのも、人の心にひそむ悪を鬼として、また人間の欲望の化身としてもとらえているからです。それは仏教の影響だと思われますが、鬼を「欲望をあらわにして傷ついたもの」、「煩悩(ぼんのう)の化身」だというのです。結婚式の「角隠し」の風習も、こうした考え方の延長上のものといえるようです。
     
節分の鬼

 「鬼」のルーツについては「隠」だといわれています、隠(おに)すなわち姿が見えないものをさしたようです。隠れているもの、目に見えず災厄をふりまくもの、人間の力を超えた不思議な出来ごとに、鬼を感じ、鬼のしわざだと考えたのです。伝説上の山男、巨人、山姥や種族の異なる者、そして死者の霊魂、亡霊、たたりをする怪物、もののけ、餓鬼、地獄の赤鬼・青鬼、さらには天つ神に対して、地上の悪神・邪神、はては、鬼のような人、無慈悲な人、借金取りまでをもイメージしているようです。

 そもそも鬼というのは、その姿が見えないものであり、人の心の不安感に根ざして、つつしみの心、おそれの心がつくり出したものだともいえます。
 古来より、人々は、つくり出した鬼の属性を巧みに使い分けて、強いもの、こわいもの、疫病のシンボル、時には山の神の化身として、また子どもたちの遊びの素材として、暮らしの戒めとして、等々、生活のアクセントとして活用してきたようです。それは鬼のことわざの多彩さが、よくそのことを物語っています。

鬼に金棒・・・・・・・・・・・・・・・・強いものが加わり、怖いものなし
鬼のいぬまに洗濯 ・・・・・・・・怖い人のいぬ間に、思う存分にくつろぐ、命の洗濯
鬼が住むか蛇が住むか・・・・人の心の底ははかりかねる 本音・本性はわからない
鬼が出るか仏が出るか・・・・・先のことはわからない 来年のことを言えば鬼が笑う
鬼の霍乱 ・・・・・・・・・・・・・・・丈夫な人が珍しく病気になる
鬼の首を取ったよう・・・・・・・・手柄を立て、得意になる
鬼の空念仏・・・・・・・・・・・・・・無慈悲な人が心にもない慈悲をよそおう
鬼の念仏・・・・・・・・・・・・・・・・みせかけだけの情け深さ
鬼も十八・・・・・・・・・・・・・・・・番茶も出花、年頃になると女性はみな魅力が出てくる
鬼の目にも涙・・・・・・・・・・・・冷酷・無慈悲なものでも情に感じて涙、
                       
幸運

 立春の前日の厄払いは、人々が神仏に祈って災難をとりのぞいてもらい、幸せの到来を願う行事です。運・不運というのは向こうからやってくるものですが、でもその運が自分の方に向かってくる何かがはたらいているはずです、それは、自分自身の日頃の生き方がそうさせているんだと思います。そして幸運に恵まれるということは、目の前の幸運をつかむことができる能力が自分にあるかどうか、ということでも、あるようです。

 中国の昔話に仙人の話が多くありますが、その一つにこういうのがあります。ある寒い冬の日のことです、道士(道教の僧)が道観(道教のお寺)に帰ってきた時、衣はぼろぼろで泥に汚れた、見るからにみすぼらしい老人が門のところにうずくまって、さかんに菱の実をたべていました。近づくとその老人は汚れたあかぎれの両の手に菱の実をささげ持って、その道士に食べませんかというのです。あまりにも汚らしいので思わず道士は振り払うようにして、その場を立ち去り道観の中に入っていった。

 そこでまてよ、この寒い冬に菱の実などあろうはずはない、先ほどの老人は仙人であったのかもしれないと思い、もう一度門のところに行ったけれど、その老人の姿はなく、食べ散らされた菱の実の皮だけが残っていた。先ほどのみすぼらしい老人は神仙(神通力を得た仙人)であったのかもしれない、せっかく出会えたものを惜しいことをした、と道士は思った。

 そして道観の中にもどった時、あの老人が食べていた菱の実は不老不死の妙薬であったかもしれない、そうだ、せめて、食べ散らかした菱の実の殻でも拾っておこうと、急いでまた門のところへ行ったけれど、その菱の殻も消えてなくなっていた。道士は自分自身のものごとの判断能力のなさを思い悔しがったというお話です。これは幸せが目の前にあるのにそれに気づかず、幸せをのがしてしまうことが実に多いことの喩え話です。

幸せは「福」と「禄」と「寿」

 幸運を授けてくれる仙人が目の前に現れて、幸せを授けてくれたとしても、それを幸せと受けとめる力が備わっていないと、幸せのチャンスを逃してしまう。幸せとは何かを見極める力を持つことが肝心です。幸せの基準は人によってさまざまです、幸運は日頃の生き方の善循環によりうまれるものです、生き方が悪いと悪循環します。また幸運を得たと有頂天になっていると、運に見放されてしまうから、これも心得なければいけないのでしょう。

 人の願いは幸せになることです、では何をもって幸せであると言えるのでしょうか。それは「福」と「禄」と「寿」が揃って初めて幸せだということでしょう。すなわち「福」は不安なこともなく心がおだやかであるという精神的な幸せ、そして「禄」は、金や財、食べ物に不足していない、満ち足りているという物質的な幸せ、そして「寿」は、健康で長寿であるという肉体的な幸せです、この三つが揃っていると、幸であると実感できるのでしょう。

 人は幸せを願うあまりに、それが満たされないと、欲望をあらわにして、人の心にひそむ邪悪な心が鬼と化してさまざまな恐ろしい行動に出ることがあります。長男の母親殺し、妻が夫を殺害、次男が妹を殺害、このような事件が昨年から今年にかけて相次いで起きています、そして凶悪な事件が後を絶ちません、まさに自制がきかない人間の悪の心による行動としか理解できません。昔の人々は、鬼を人間の欲望の化身としてもとらえています、ほんとうに恐い鬼は己の心に潜む邪悪な心です。

 神仏からの賜り物、天から与えられるものを福分といいますが、幸せをつかむ努力をしているところに、運がめぐり、福分が授かるでしょう。幸せを自分だけのものとせず、おしまず他に福分けをしているところに、福分も大きくふくらむでしょう。幸せの種まきをしている限り、その人から福分が無くなることはないでしょう。

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