第106話 2007年11月1日 |
はけば散り はらえばまたもちりつもる 人の心も庭の落ち葉も |
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心の豊かさが手の届くところに満ちあふれているのに、それに気づかずに暮らしていることが多いのではなかろうか。 最近の親子のつながりは険悪なものです、何かにつけて親に余裕というものがありません。幼児の子育てにおいても親は子に、「しっかり・がんばれ・きっちり・さっさと・早く」と、急き立てる、親のこの言葉から子はいつも逃れたいと感じています。自分の部屋に閉じこもり、ゲームに夢中になるのも、いい子ぶっているふりをしているのもそのためでしょう。 塾や習い事に時間を費やし、青空の下で土を踏んで、友と戯れることもなく、少子化で友達の数も少なくなり、大きい子が小さい子を遊んでやったり、遊び事を教えたりすることもなくなったようです。子供同士でのつながりも弱くなり、どうしても孤立孤独化していくのです。 親も忙しいからと子供と対話することも少なくなり、父親の単身赴任や深夜に及ぶ仕事に追われ、父親が子供と対話することも遊ぶこともなくなり、母親も子の教育費のためにと、そして自分の楽しみに、家計の足しにと仕事に出れば、どうしても子供と接する時間もなくなる。食事さえも母親の手作りのものが少なくなり、親の身勝手で夫婦別れして、子供は寂しい状況におかれることも最近は多いようです。 どんな生き物にも共通することですが、親は子育てに没頭する、親は危険をもかえりみることなく子育てにのみ力を尽くします。親は子を育てることに心血を注ぐことは当然のことなのに、昨今の親たちは、やるべきことが多分にぶれてしまっているようです。かつて家庭には祖父母がいたので親の代わりをしてくれました、またご近所が地域で子供の成長を見守り支えるという地域力もあったので、その補完ができていました。 最近の家庭においては、それぞれの行動が個別化しており、家族としてのふれあいがなくなってきています。子は成長するや、親は子を離し、子は親から離れていくものですが、この頃は子が成長するまでもなく、親の心は子から離れ、子の心は親から離れてしまっています。 親子、家族、近所、お互いが思いやることによって、心の豊かさが手の届くところに満ちあふれているのに、それに気づかずに暮らしていることがけっこう多いのではないでしょうか。 |
心の豊かな生き方ができる世の中に住んでいながら、人は迷い道をさまよっている。迷い道に入って、つまずき倒れて人生を無にしてはならないのです。 最近、子が親を殺傷するという事件が続発しています。奈良県の医師宅から出火、一家3人の遺体が発見され、高校生の長男が放火を認めた事件、長野県では父親が子どもに斧で襲われ、京都府では警察官の父親が娘に殺されました。こうした家族内での傷害事件が多発しています。 元家裁調査官でNPO法人「非行克服支援センター」の浅川道雄副理事長は「一般的に、子どもによる親殺しは一種の自殺行為。現状が耐え難く、行き詰まりを感じて自分の成り立ちの根源である父親を殺して自己否定しようとしたのでは」と話しています。 また、子供同士でのいじめがエスカレートした恐喝事件も多いようで、自殺者まで出る始末です。いじめ(苛め、虐め)とは、立場の弱い個人に対して、精神的にあるいは肉体的に苦痛を与える行為であり、嫌がらせが一時的もしくは継続的に行われている状況で、たとえ、苛めているつもりがなくても、抵抗する手段をもたない相手が苦痛を感じれば、それはいじめとなるのです。同様に大人の社会でも、職場いじめ、ネットいじめがあります。 10月9日の京都新聞にこういう記事が載りました。小学4年生と中学一年生の児童に医師が面接して診断したところ、北海道大学研究チームの調査結果として、うつとそううつ病の有病率が4.2%にのぼったことがわかったということです。有病率は中学1年生で、10.7%にのぼったそうですが、調査にあたった感想として「これほど高いとは驚きだ。これまで子供のうつは見過ごされてきたが、自殺との関係も深く、対策を真剣に考えていく必要がある」との意見です。 家庭は安心できる居場所であり、家族とのふれあいにより、心のやすらぎを得ることができる。地域の人々との付き合いや活動により、安全・安心を享受できよう。また学校や職場で望ましい付き合いやコミュニケーションができれば、楽しく学び、活力を持ちつつ働けるでしょう。 心の豊かな生き方ができる世の中に住んでいながら、人は迷い道に明かりを求めてさまよっています。迷い道に入ってしまい、つまずき倒れて人生を無にしてはならないのです。 |
心の豊かさとはなんであるかということを明らかにして、自分自身が心の豊かさを求め続けているかぎり、その人は心豊かに生きることができるでしょう。 平成19年版「国民生活白書」では、現状の生活に満足している人はおよそ4割と過去最低に落ち込 み、「不満」は30年近く増加の一途だと指摘しています。有り余るほどに物の豊かな時代に生きている現代人が、なにゆえに現状の生活に満足していないのでしょうか。また近年「物の豊かさ」よ り「心の豊かさ」を求める傾向が顕著になっている。 「国民生活に関する世論調査」では平成18年、心の豊かさを求める人の割合が62・9%と調査開始以来最高となったそうです。 なぜ物の豊かさより心の豊かさを求めるようになったのでしょうか。 「金じゃないんだよ。世の中にはもっと大事なものがあるんだ」今、昭和30年代初期の東京の下町を舞台とする「三丁目の夕日」という物語が人々に語られるようになった。物が豊富でなく貧しかった時代を懐古して、人情味豊かな時代に郷愁を抱くというところもあるようです。 家族のみんながお互いを思いやり、夫婦むつまじく、親子の情も細やかで、居心地のいい、あたたかい雰囲気の家庭がありました。隣近所の人々がお互いを大切にしあって、住みよい地域づくりがなされ、そして仕事にも生きがいを感じ、社会に貢献していると感じていました。喜怒哀楽を分かち合う人間関係は懐かしさではなく、あこがれでもあるのです。 絆(きずな)という意味に、断つにしのびない結びつきとか恩愛、離れがたい情実というのがあります。恩愛とは親子・夫婦の愛情、情実とはまごころのことでしょう。精神的な人と人との絆が強ければ、物がなくても心は豊かになるでしょうか。 心の豊かさといってもそれがなんであるかという定義はなく、人によって認識はそれぞれ異なるでしょう。物の豊かさより心の豊かさをというけれど、そのいずれをも望む人もいます。物の豊かさが満たされれば自ずと心も豊かになるという人もいれば、心が豊かであれば物がなくても生きていけるという人もいるでしょう。多くは求めないが生きていくに足りる物があり、健康で長寿であれば自ずと心が豊かになるという人もいます。 人は心豊かに生きられる世にすんでいるのに、欲張り心のおもむくままに生きているから、心の豊かさを感じないのでしょう。ことさらに求めなくてもいい、この世に生まれてきたことを喜び、生きとし生けるものすべてが共に生き、生かしあっていることを喜ぶ、このことだけでいいのでしょう。この喜びこそが心の豊かさのすべてであるはずです。そして、情緒あふれ、感性豊かな心の受け皿を持つことで、心の豊かさを感じることができるでしょう。 はけば散り はらえばまたもちりつもる 人の心も庭の落ち葉も 掃けば散る 掃かねば積もる 落ち葉かな 庭の紅葉も 心の塵も 。落ち葉を掃く、掃けども掃けども散る落ち葉、これが秋の風情というものでしょう。払っても、すぐに積もるのが心の塵です、生きているから積もるのです、積もればまた払えばいいのでしょう。 心の豊かさとはなんであるかを明らかにして、心の豊かさを求め続けているかぎり、その人は心豊かに生きることができるでしょう。 |