「鐘の音」   和尚の一口話    2000年 10月1日

    第二十一話  
明月清風
          

 人は何ごとにつけても、心身にまつわる一切の執着、またその
 原因となる「とらわれ心」を捨て去ることは容易ではありません 

 普段、常に吸う息、吐く息を意識して呼吸をしている人などいません。朝起きてから夜眠るまで、むろん寝ている時も無意識のうちに身体が呼吸をしているから、生きているのです。また、自分では意識していないのにおなかが減るから何か食べたくなります、そして四六時中、眠らないではいられません。

 私たち人間は、自分の意思で行動し、日々生きているのだと思い込んでいますが、自分の意識・行動にかかわらず、このように、生理的にも「生かされている」ことに気づくべきでしょう。

 また、生老病死は生き物にとって自然な姿です、人間以外に老いを嘆く生き物はいないでしょう。 自然界では死も自然な姿であり、生まれ死にして世代が交代していきます、死は生すなはち新しい命が生まれる始まりです。

 「生き死にの 境はなれて住む身にも さらぬ別れの あるぞかなしき」
 これは今から170年前、年の暮れのある日、老いて病の床にある良寛さんの傍らで、この冬の寒さに耐えられずに良寛さんは死んでしまわれるのではなかろうかと、貞心尼が思わず、ふと漏らしたことばです。

 貞心尼の素直な思いでしょう、これに良寛さんが
 「裏をみせ 表をみせて 散る紅葉」
と、お返しになりました。明けて正月六日、枯れ葉が枝を離れるが如く、
七十四歳で息をひきとられました。


 また良寛さんの一句にこんなのがあります
   「盗人に 盗りのこされし 窓の月」
 良寛さんの質素な住まいに盗人が入ったけれど、これとて盗み取るものもなかった、賊の立ち去った草庵の窓には月の光がなにごともなかったかのように、皎々とかがやいていました。
 一点の曇りもない澄みきった秋の空に、月が皎々と光り輝いています、生き死にのこだわりさえもない、良寛さんの一句です。


 人は何ごとにつけても心身にまつわる一切の執着、またその原因となる「とらわれ心」を捨て去ることは容易ではありません。
際限のない欲、強欲で自分が自分を苦しめている。このこだわりこそが迷いと悩みの根元、すなはち煩悩です。

 仏の教えでは「生かされている」自分が「とらわれ心」のおもむくままに生きるのではなく、現前の世界をありのままに、あるがままにとらまえて、「心身共にこだわらない生き方」を教えています。

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