「鐘の音」   和尚の一口話          2000年11月1日

  第二十二話   
渋柿  

     人生に待てしばし、「そのうちに」はありえません

 こんな話があります、 晩秋の一日、ある老僧が弟子を連れて歩いていると、おりからの風に吹かれてしきりと葉が落ちた。老僧が歩きながら一枚一枚、葉を拾って、袂に入れるのを見た弟子が「和尚さまおやめ下さい、いま掃きますから」 と言ったとたん、「馬鹿者、いま掃きますで美しくなるか、一枚拾えば一枚分だけうつくしくなる」 と、大喝一声、叱咤されたという。いつどこで命果てるかわかりませんぞ、 老僧は弟子に身をもって教えられたのです。

 この世の何もかもが、一時たりとも、同じ姿を止めていません、無常とは世間一切のもの、新羅万象ことごとく、生滅してとどまることなく、移り変わっていくということです。
 生きているのは今です、「今」に生きる、「今」をおいて他に生きる時ぞなし。

 よりよく生きようと思うならば、今から生き方を変えようと心に決めることです、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」何が正しいかを見抜く能力を養い、今をより楽しく生きることです。

 「甘干しの 渋がそのまま 甘くなり」
 干し柿にしたら、渋柿でも渋がそのまま甘くなる、渋のほかに甘さのもとなし ですから、こだわらず、素直に一皮むけば甘くなるということです。

 もともと柿の渋が甘くなるように、人は仏として生まれてきたのですから、生まれながらに仏性がそなわっている。だから「金」や「モノ」にこだわる強欲と自分だけがというこだわりを捨てれば、
柿渋がそのまま甘くなるように、自分の仏性がそのままに現れる、人は生まれながらに仏なのです。

 仏である自分に気づかず、自分自身で迷い、悩みをつくり、苦しんでいるからこの娑婆世界が、そのまま極楽浄土の世界であるのに、辛くて苦しい世界だと思い込んでしまいます。


 
「青柿が熟柿(ずくし)弔う」 のことわざのとおり、青柿もそのうち熟柿、やがて己も地上に落ち果てるから、命あるうちに早く甘柿になりたいものです。
「そのうちに」がいけない、そのうち、そのうちで日が暮れて、人生が終わってしまう、人生に待てしばし、「そのうちに」はありえません。

 「朝に紅顔ありて夕べに白骨となる」ということわざがありますが、自分自身のこととして、人間は死ぬもの、そしていつ死ぬかわからない、今、突然、死がおとずれるかもしれません。 こんなことをしみじみと思う時、自分の生き方を本気で考えるものです。
 生ある間に本当の生き方を見いだし、悔いのない人生を送りたいもです。

 

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