「鐘の音」   和尚の一口話     2001年1月1日

 第二十四話
 いのち輝け 21世紀
  

今、心静かに現前の光景をそのままにとらまえてみましょう、
この世界の何もかもが、そして自分自身の命も

みんな輝いていることに、心躍ることでしょう。

 永平寺の七十七世であられた丹羽廉芳禅師が、ある時こんな話をされたのを思い出す。 それは禅師さまにご挨拶に伺った時のことでしたが、 私どもが座して礼拝し、頭を下げてご挨拶いたしましたところ 、禅師さまも手を合わせて深々と畳に頭をつけてお受けいただきました、ところがなかなか頭をお上げにならないものですから、思わずまた頭を下げ直したところ、禅師さまがようやく頭を上げられて「畳が邪魔になってこれ以上に頭が下がらないのです」とユーモアたっぷりの第一声が返ってきました。

 そして「挨拶は畳が上がるほどでなきゃならないよ」と言われました。いつでもどんな人にでも、にこやかに、そして丁寧に頭を下げてご挨拶をされるからどなたも恐縮するばかりでした。


 また愚僧が永平寺に修行僧として安居していた頃のことですから、 かれこれ30年も前のことですが、 その時、丹羽廉芳さまは永平寺の副貫首でした永平寺の山門の回廊をお通りの時のことですが、境内の掃除をしていた修行僧が、痰唾を吐き捨てたのが目に留まり、大きな声で修行僧に「 お大地様に唾を吐くなんてとんでもないことだ 」と愚僧の目の前で一喝されました。
お大地様は仏様だと 」諭されたのです。

 お釈迦様が成道のみぎり 我と大地と有情と同時に現成す、山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」と感動の心で叫ばれたと伝えられています。

 お釈迦様のこのおさとりのことを、道元禅師は「十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆仏事 (とちそうもくしょうへきがりゃくみなぶつじ)をなす」と、大地も山川も草木も、石ころも木片もみな真実輝く仏なり、生きとし生けるものはすべて命輝く仏、この世のすべてがみな仏そのものだと教えています。

 私たちは輝く仏の世界に生きていることを忘れています、だから万物みなすべてに対して、畳が上がるような挨拶の心をもって尊ばなければならないのに、 大地に唾を吐きかけるなんて、とんでもないことだと丹羽廉芳禅師は戒められたのです。

 20世紀、人間は地球環境をすべて支配しているのだという思い上がりが人々の心の底にありました。 この人間の思い上がりが世の東西を問わず、覇権、強弱、上下の論理をうみ、 国や民族の争いのみならず、 身近な人間関係の争いごとをも引き起こしています。

 人間も生きとし生けるものの一つにすぎないのですが、自然環境の急速な破壊は、生きとし生けるものに対して、生きものの種を根絶やしにしたり、滅亡の淵にまで追いやっています。

 20世紀、 人間はいつも、何ごとにつけても、「世の中は大きな変化をきたしている、この時代の流れに合わせて変革していかねばならない」と、経済合理を優先させてきました。一方では、大地や山川草木の真実の輝きにも、生きとし生けるものの命の輝きにも、気を留めようとしなくなった。親子、人間関係においても、互いに命輝くふれあいがなくなってしまった。


 山川草木悉皆成仏」これは、地球人類すべての心に響き合い、通じ合う言葉として、心として、 21世紀の自然と人間の関わり方や人類共通の価値観としたいものです。

 新しい世紀の年頭にあたり、今、心静かに現前の光景をそのままにとらまえてみましょう、この世界の何もかもが、そして自分自身の命もみんな輝いていることに、心躍ることでしょう。

万物の命が輝く、21世紀の地球環境保全のために・・・
  再利用できる資源はとことん再利用し、 再利用できない物は消費を少なくしょう。
   せめて私たちの生活の場である道路や沿道に、空き缶や さまざまな物を捨てない、
   どんな物でもどんな食べ物でも、自分の眼睛
(目の玉)のごとく、大切にしたい。

   
一 木一草や生きとし生けるものの命を尊び、すべての命のつながりを断絶させない
   どんな人も、 どんな生き物も、大地の高さから見れば、みな等しく尊く輝く命なり、
   万物の命輝かせる人類共通の価値観を持つ時代、 それが21世紀です。

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