2002年6月1日
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道元禅師が中国での修行時代に、炎天下、きのこを干している老僧に出会った、老僧は食事をつかさどる役の典座てんぞです、敷瓦も焼け付くほどの炎天下に、背骨は弓のように曲がり、大きな眉は鶴のようにまっ白な老典座が、手に竹杖をもち、笠もかぶらず汗だくになって、もくもくとしてきのこを干している。 老典座に「なぜあなたがやらねばならないのか」 と、問うと、 「他は是我にあらず」 と、答え、またもくもくとして、きのこを干し ている。 「どうしてこのような炎天下にされるのですか」 と、再び問えば 「さらにいずれの時をか待たん」 と、答えた。 |
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「他は是我にあらず」、あてにできるかどうか、わからない他人、「さらにいずれの時をか待たん」、来るか来ぬかわからない未来、確信の持てるのは、今、自分は生きている、この一瞬だけです。 この時、道元禅師は言葉に窮し、未だ自分のいたらなさを知り、この老僧のようにあらねばと、思ったそうです。今、自分自身を、よりよく生かすこと、今、私がなさなければ、めぐりあうべき真実のなにもありません、ただ苦悩の中を無為に生きるのみです。 |
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関西お笑いの最長老コンビ・漫才師の「いとし・こいし」さんが、こんなやりとりで笑わせていました。 こいしさんが「そろそろ我々も、老後のことを真剣に考えんと、あきまへんな」と、相方のいとしさんが、これに答えて「おかしなこと言なはんな、老後とは漢字で老いの後と書きます。今、私は、老人の真っ最中で、現役の老人です。老人の現役ですから、老の後のことを考えるのはまだまだ早い、老人の現役を退いてから、老後のことをぼちぼち考えたらよろしい」。 現役老人には老後はまだ先、命尽きるまで現役だと、このようにおっしゃいました、命尽きるまで人間の現役とは、さすがにうまい表現です。 |
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この世のすべてのものはみな変化しています、生きとし生けるものの変わり方はとくに早く、人の命など朝露の日に照らされて消えるが如くであります。 変わらぬと思い込んでいる古郷の山や川でさえ、悠久の時の流れのなかにある、まさにこの世は無常です。人はこの無常なることに気づくとき、はじめて命のはかないことを深く思い、かけがえのないこの命を、慈しむ心がうまれる。 「仏道を学ぶ人は、後日に修行しょう、などと考えてはいけません、 今日、この時をぼんやりと過ごさず、その日、その日、その時、 その時を、勤めなければならない。」過ぎ去った日の自分を振り返ってみて、我が人生に悔いナシと、言い切れるでしょうか。 |
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