「鐘の音」   和尚の一口話                2002年7月1日

                              あざな

      第四十二話
  人生は糾える縄の如し
                        
       
       
人生は糾える縄の如し、生死あり、苦楽あり
 

 
サッカー・ワールドカップの熱き戦いに人々は興奮しました。ゲームの始まる前もゲームの最中も、終わってからも熱き戦いの余韻、なをさめやらず、熱狂また熱狂というところでしょうか、先の読めないゲームだからおもしろい。

 ロシアの劇作家アントン・チエホフが「人生が二度くりかえしておくれるものなら自分はこんなことを希望する、一度は手習い、一度は清書」と。けれども現実は、時が刻々と過ぎゆく、手習いがそのまま清書です。
 サッカーも人生も、ともに一度きりで先が読めないからワクワクドキドキ、おもしろいのかもしれません。


 人生は一度きりで、二度にあらず、生者必滅であることを人々は日常、全く忘れて暮らしているわけではありません。四苦八苦の日々をおくっている私たちですが頭のかたすみに、生き死にを意識しているのです。

 けれども、死について、できるだけふれたくないから、四は死を、九は苦を連想するので、忌み嫌う四を壽に、九を苦でなく楽に変えて、壽・楽と読み替えてみても、壽命はいつか尽きるものです。また根拠のないことながら、葬儀には友引の日をさけ、結婚式には友引を選ぶ、友引の日にこだわります。始まりがあれば終わりが、上りがあれば下りが、苦があれば楽がある、頭では理解できているのです。


  おおよそ私たちは、人は死ぬものだということを、普段、人ごとのように忘れて暮らしていますが、時として、死の恐怖に直面することがあります。また死の恐怖に直面しなくとも、人にはだれでも寿命というものがあるから、やがて自分の命の終末がそう遠くないであろうと思わざるをえない時が、必ずめぐってきます。
 
 死に向きあった時、人の心は大きく揺れ動きます。死にたくない、生き続けることへの執着、 なぜ自分が死ななければならないのかと思いつつも、どうせ死ぬんだったら どうにでもなれとやけっぱちにもなる。ところがそれでも死ななければ、だんだん心がしずまり、周りを見るようになり、感謝の気持ちがうまれてくるという。


 生きているかぎり、四苦八苦から逃れるわけにはいきません。逃れようとすば自ずと欲が出る、それが煩悩です。四苦八苦を数字に見立てて 4×9=36、8×9=72、36+72=108と、煩悩を数えることができるという、おもしろい説がありますが、次々と煩悩がわき出てくる。

 どうあがいてみても、生きてる限り四苦八苦から逃れることはできないから、煩悩も尽きません。苦しみから逃れようと欲すれば、煩悩がついてくる、煩悩によってまた苦しみが増す、尽きることがない苦しみや煩悩だけれど、「一切我今皆懺悔」と懺悔文の教えがありますが、懺悔こそ煩悩の炎を滅除する、生き方の基本姿勢でしょう自ら懺悔することによって、煩悩の炎を滅除して、苦しみを楽しみに転じる生き方ができそうです。

 世の中、喜びや楽しいことばかりであれば、それは喜びや楽しみとは言わない、悲しみや苦しみがあって、はじめて喜びや楽しみが味わい深いものになるということでしょう。一方を照らせば、一方は暗し、背が有れば腹がある、表があれば裏がある、人生はまさに糾える縄の如しです。それというのも、生きているからこそ苦楽を味わい知ることができる、そしてまさに台本のない一度きりのドラマだから、サッカーも人生もおもしろいのでしょう。


   
生死のなかに仏あれば生死無なし。
   
またいはく、生死のなかに仏なければ、生死にまどはず。
                  道元禅師(正法眼蔵 生死)

   四苦八苦
     苦しみを四あるいは八に分類したもの。四苦とは、生・老・病・死で、これに
     怨憎会(憎い者と会う苦)、愛別離苦(愛する者と別れる苦)、求不得苦(不
     老不死を求めても得られない苦、物質的な欲望が満たされない苦)、そして
     五取蘊苦(この世は迷いの世界、一切が苦である)これを四苦八苦という。



             
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