「鐘の音」   和尚の一口話                 1999年7月1日

          第六話
 
没滋味
 もっじみ    

       食物のを尊ぶ心を育てることが、家庭や学校での
      子育において大切なことだと、もっと声高に叫ばれて
      いいのではないでしょうか


 今年はじめて収穫されたという、みずみずしいトマトをいただきました。あまりにも美味しそうなので冷やすとより美味しいのだが待ちきれず、早速ひとかぶり、旬の味がいっぱい口にひろがりました。

 今年もトマトが畑で熟する時期になりました。
近年は店頭に年中トマトがある、けれども品種改良のせいか畑でもぎ取って食べたあの青臭いトマト特有の臭いは店頭に並んでいるトマトにはない。


 トマトは年中店頭に並んでいるから夏の野菜と言えなくなってきたのか、トマトの正確な旬を子供達は知らない。
 トマトのみならず様々な果物や野菜はいつが旬なのか、わからなくなってきました。

 旬に味わうからこそ,それぞれの本来の持ち味がよくわかる。野菜、果物、どんなものでもそれ自身の味、本来もって生まれた味があるはずです、それは人間の思量分別を越えたものです、あえて没滋味と呼ぶことにしたい。


 魚も切り身や加工されたものが、肉も、それぞれパッケイジされたものがスーパーの冷蔵ケースに並んでいる。若い人は好んでこれらのものを買い求める、時にはお総菜として調理されたものを調法する、自分で魚を包丁でさばいたり、肉を料理の用途に応じて量り売りしてもらうことを、若い人は敬遠する。魚の目が怖いと思う人は調理ペーパーで覆えばよい、自分で鱗や腑をとり、さばくことが料理の基本であるはずです。

 モンゴルの人は羊の血の一滴も大地に落とすことなく解体する。ドイツ人は豚の血の一滴をも無駄にせずソーセージをつくるという。いずれも親が子供によく教え込むから、あたりまえのこととして、食べ物のを大切にすることを実体験で学び、子供は成長します。


 人間は他のを食して生きている、食物はであり、それぞれの食材の持ち味を尊び、食材のを尊ぶべきであります。食物のを尊ぶ心を育てることが、家庭や学校での子育において大切なのだと、もっともっと声高に叫ばれなければいけないのではないでしょうか。
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