第110話    2008年3月1日
                 
幸せであれ

目に見えるものでも、見えないものでも、
遠くに住むものでも、近くに住むものでも
すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、
一切の生きとし生けるものは、幸せであれ 
                    「 仏陀の言葉 スッタニパータ 147 」


散る花の枝にもどらぬなげきとは 思いきれども思いきれども   
一茶

 人が死んだ時に、最近の若い人達は「天国に行ってしまわれた」とか「天国で私達を見守っていてください」という表現をされます。こういう表現は最近、若い人達によくみられることです。一昔前では、人が亡くなると、「あの世すなわち冥土(めいど)へ旅立たれた」という言い方が一般的でした。
 一神教では、人が亡くなると魂は昇天して天国に行くと信じられています、神に召されて天国に行くのです。最近の日本人の若い人達にも、亡き人の魂は天国へ昇天する、そういう印象が持たれているようです。でも一神教の、神に召されて天国へ行くのとは、ニュアンス的にちょっとちがうようです。

 どうして最近の人々は、人の死を「あの世すなわち冥土へ旅立たつ」と言わなくなってしまったのでしょうか、どうして「天国に行ってしまう」というのでしょうか。
 仏教では悪人が死後に行くという苦しみに満ちた世界を地獄といいますが、その反対が天国です。また死後に行くという安楽な世界を、極楽とか極楽浄土ともいいます。最近の若い人達の天国というイメージは、極楽とはすこしちがうようで、天上の楽園のような世界がイメージされているようです。

 あの世、すなわち冥土へ行くにはそこへ通じる道があり、それを黄泉路(よみじ)とよびますが、その黄泉路をたどって、あの世すなわち冥土へ至ると考えられてきました。
 冥土に通じる黄泉路については、さまざまな想像がなされています。それは死後の世界である冥界(めいかい)にも地獄や極楽のちがいがあるから、冥界の入り口であるあの世とこの世の境、すなわち幽冥境(ゆうめいさかい)には、花が咲きほこる花園が広がっているとか、三途(さんず)の川があるとか、いろいろと語り継がれてきました。

 一昔前、亡骸(なきがら)は野辺(のべ)の送りの葬儀をして埋葬されました。死者を葬る儀式を葬式といいますが、最近では、葬式といわずに告別式として、荼毘(だび)に付し収骨して、後日、墓地等に納骨するというかたちが一般的になりました。49日の中陰(ちゅういん)の間は、遺骨が白木の位牌と遺影とともにまつられようになりました。
 このように、とむらいの見送りである葬送(そうそう)の儀礼が様変わりしてきたことから、亡き人は黄泉路をたどって冥土へ旅立つという言い方をせずに、告別式を終えるや魂は天国に昇天するというイメージに変わってきたのかもしれません。

思ふまじ 思ふまじとは思えども 思い出しては袖しぼるなり   
良寛
 
 人生の最後を病院でむかえ、そして病院から移送される先は住み慣れた自宅でなく、葬儀会館へ直行することが多くなってきました。かつては地縁血縁によって執り行われてきた葬儀が近年は様変わりしました。それは地縁のみならず血縁までもがその結びつきの絆が弱くなり、葬儀業者さんにすべてを委託するようになってきたからです。

 一昔前の葬儀は地縁である町や村の隣保と、親族である血縁の者が役割を分担して葬儀の諸準備にあたりました、そして、僧侶とともに葬儀を執り行いました。
 葬儀のかたちはその地方のしきたりにもとづいた野辺の送りであり、地縁血縁のものが、棺の前後に葬列をつくって住み慣れた自宅から埋葬する墓地へと送っていきました。墓穴を掘って埋葬地で念誦(ねんじゅ)がおこなわれ、最後の別れをして、遺体が埋葬されました。

 棺におさめる前に、遺体を湯でふいて清める湯灌(ゆかん)さえも葬儀業者にゆだねる今日の葬儀とちがって、地縁血縁の手による野辺の送りでは、送葬にかかわることで、命の重みを感じました。また送葬から中陰が満ちるまで、遺族の悲しみを和らげ癒してあげる、こまやかな心配りもされました。
 人の顔かたちがそれぞれにちがうように、人の死もさまざまです。葬儀のしきたりとして、長寿で亡くなられた人には、悲しみの中にも長寿がたたえられました。不自然な死、突然の死、若くして亡くなったものには、荒御霊(あらみたま)の鎮魂にも注意がはらわれました。

 最近では葬式は亡き人との別れを意味する告別式だと理解する人が多くなりましたが、仏の教えをいただかれた亡き人が、新たな仏の世界へ旅立たれるのを送る儀式でもあります。
 冥土へと送る野辺の送りは、冥土に至らしめるために黄泉路での平穏を願い、亡き人のご冥福を祈るものでした。野辺の送りの葬式から告別式のかたちに、葬儀が様変わりしてきたけれど、亡き人のお人柄がしのばれ、しかもご縁のあった方々との心の絆を大切にした、厳粛な、仏教徒らしい葬儀にしたいものです。

ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば 父かとぞ思い母かとぞ思ふ  行基

 仏教では死後の世界をどう説いているでしょうか。お釈迦様は、死後のことよりもこの現世でどう生きるか、人間としての自覚と、よりよい生き方を教えられました。でも、一般に信じられている死後の世界をあえて否定はされませんでした。
 だれでも、いずれたどることになる黄泉路が平穏であり、冥土が安楽な世界であって欲しいと思う。幽冥境が花々の咲きほこるところであり、三途の川もおだやかに流れて、冥土が天国極楽であって欲しいと願う。

 死は恐ろしいからこそ、人はだれでも、あの世が幸せに満ちたところで、この世よりももっと楽しい住みよいところであって欲しいと思うのです。あの世が地獄であって欲しくないから、極楽とか極楽浄土として思い描き、天国に行きたいと願うのです。
 そのために、この世で善行を積み、その成績結果が評価されて極楽に行きたいという願望から、さまざまな地獄極楽話が生まれたようです。それは人の行いや分別によって、善い行いをしたものにはよい報いを、悪い行いをしたものには悪い報いを受けるという因果応報(いんがおうほう)にもとずくものです。

 地獄に行きたくない気持ちが、人の生き方を示した言葉であったり、諺(ことわざ)として語り伝えられてきました。
 嘘(うそ)をつくと地獄に行って閻魔(えんま)さんに舌をぬかれるから嘘をつくな。悪いことを重ねていると三途の川で閻魔さんに地獄に堕とされるから、悪いことをしてはいけないと親は子に善行を教えました。
 「地獄の沙汰も金次第」とは、この世はどんなことでも金銭さえあればなんでも望みがかなうという意味です。金で人生は買えないが、金で人生が変わってしまうこともある、人情は金で買えないけれど、人情が金の値打ちをつけることもある。人に助けてもらったり難を救われたりすると、「地獄で仏に会ったようだ」などと、困窮の果てに苦しんでいるとき予想もしなかった助けに出会った喜びをあらわしたりもします。

 「地獄は壁一重」とは、人間は欲望や油断から、失敗したり思いがけず犯罪を犯すことがあるから注意せよという戒めです。「黄泉路の障り」とは死んで冥土に行くときに支障となるものをいう、煩悩が多いと成仏できないことを言うのです。
 お釈迦様はご臨終の間際に、涅槃(ねはん)とは煩悩(ぼんのう)の炎を滅徐した寂静の境地であると諭されました。すべての悩み苦しみのない世界を涅槃といいます。涅槃の境地にどうすれば到達することができるのか、お釈迦様は最後の説法で、このことを説かれました。それで仏教では、人が死んで一切の苦しみも悩みもない心境に至ることを涅槃に入るといいます。

年毎に咲くや吉野の山桜 樹を割りて見よ花のありかを   一休

 インドでは人のみならずあらゆる命は生まれ変わり死に変わりするものである、すなわち輪廻転生(りんねてんしょう)すると考えられていますから、今生の生き方が来世での生まれ変わりを決めることになる。したがって日々善行を心がけ悪行をしないという倫理意識が自然と生き方の基本になっていきます。
 日本では人は死ぬと黄泉路を経て冥土に至り、肉体は滅しても魂は生き続け、ご先祖様になって子孫を加護すると信じられてきました。それで子孫に尊敬され、崇(あが)められる先祖霊となるために、今生では善行に励み、悪行を慎むという倫理意識が尊ばれてきました。

 葬儀の後、49日の中陰の間も、地縁血縁のものが追善供養(ついぜんくよう)をつとめるという慣わしがあります。追善とは亡き人の代わりに善根功徳(ぜんこんくどく)を積むことです。善行を修すれば因果の道理によりて善き報いがある、けれども自分が受ける善報を自分が受けないで亡き人に手向(たむ)けるのです。追善供養とは冥界に至った亡き人の精霊に、物や心の施しをすることで、冥界で仏さまと同じ境界へ、すなわち亡き人を成仏させたいというのが本来の意味です。
 それは、今生に生きるものに対しても、よりよき人生を生きるために、善行に励むべきことを教えたものでもあります。

 大乗仏教においては、人間世界のほかに、人間以下に退化した四つの世界として地獄、餓鬼、畜生、修羅を、人間以上に進化した五つの世界として、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏、があるという考え方がされるようになりました。仏、菩薩、縁覚、声聞を四聖といい、天上、人間、修羅、餓鬼、畜生、地獄を六道といって、四聖は悟りの世界、六道を迷いの世界、あわせて十界という。
 お釈迦様は、この現世でどう生きるか、人間としての自覚と、よりよい生き方を教えられました。この十界はよりよき生き方を自覚するための指標としてあらわされたものです。

 葬儀は亡者を冥土へと送る儀式です、僧侶はその導をします。また生者すなわち遺族や会葬者は葬儀にかかわることで世の無常を感じて、儚き命を大切にして生きていくことを強く自覚するでしょう。
 最近では家族葬だとか、葬儀を簡素化するなどという、うわべのことばかりにこだわる傾向があります。葬儀は亡き人の人生をたたえるにふさわしいものであって、地縁血縁のもの、そして生前にご縁のあった方々との絆を大切にした、亡き人のお人柄がしのばれる、心あたたかなものにしたい。
 葬儀を終えた後で、いい葬儀であったと思えるならば、悲しみの気持ちは消えずとも、ほのぼのとしたぬくもりが感じられ、遺族の悲嘆もしだいに癒されていくでしょう。

 父母の命を受け継いだことは幸いです。亡き人の生きざま、技や智恵、教え、夢を引き継ぐことは幸いです。亡き人は冥土に行かれたけれど、墓にも仏壇にもまつられていますから、距離や時間を超えていつもこの世にあって、ともに生きています。亡き人と喜びも悲しみもともにして、日々を楽しく生きましょう。

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