第111話    2008年4月1日
桜

春風に 吾が言の葉の 散りぬるを 花の歌とや 人のながめん
                                     道元禅師

世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし 
在原業平

 4月は新年度の始まりですが、昔は「年度」というものはなく、暦年で1月から12月までを会計の期間としていたようです。明治維新の後に政府の財政が苦しくなり、暦年に合わせることができなくなって「年度」というかたちがとられるようになりました。明治19年に現在の4月から翌年3月までの年度が定められたそうです。会計年度の始期が4月1日となったのは、秋の収獲後の徴税の都合のためであるとされています。

 4月から学校では新学期が始まり新入生が入学し、企業では新入社員が社会人の一歩を踏みだします。事業年度の始まりであり、あらゆることがこの4月から新たにスタートします。4月の年度初めの頃に桜が開花します。人々は毎年この時期には桜の開花を待ちこがれます。日本人にとって桜には、格別の思いがあるようです。

 春になって、花を愛で食事や団欒を楽しむことは、世界中の諸民族にも見られることでしょうが、桜の花の下で酒盛りをして楽しむ、花見は日本人独特の民俗的慣習のようです。
 この花見の慣習は日本人が農耕民族であるからだといわれています。農事の始まる前のこの時期に、山の神が里に降りて枯れ木に花を咲かせる、やがて山の神は野におりて、田の神として豊作をもたらしてくださる、農耕民族である先祖はそう信じてきました。桜の下の酒盛りは、山の神をたたえて田の神としてお迎えする前祝いに起源があるともいわれています。

 天地の恵みによって人は生きていけるのですが、愚かにも農業技術の向上と経済の効率化が恵みをもたらすのだと、現代人は過信しています。この秋は運良く豊年満作となるかどうか、だれにも予測することはできません。天災は突然にくるからです。地球温暖化によるとみられる気象異変も起きています。
 山の神を田の神としてお迎えして農事に励む、かつての日本人の姿は消えつつあります。枯れ木に花を咲かせてくれた山の神をたたえて、桜の下で花見をするなどと思い描く人はもういないのでしょうか。

敷島の 大和心を人とわば 朝日に匂う山桜花  本居宣長

 桜にはさまざまな種類があります、早咲きの彼岸桜から遅咲きの山桜、しだれ桜に八重桜、色も多彩です。若い桜の木には精力のほとばしりを感じます。幾星霜を生きぬいてきた古木には風格があります。一本桜には威風堂々たる威厳があり、しだれ桜には優雅さが、八重桜には雅な艶やかさがあります。ソメイヨシノの並び咲く絢爛たる美しさを感じながら、桜並木を歩くのも楽しい。ソメイヨシノはどの木もみな同じ花をつけるけれど、山桜は実生ゆえにそれぞれの木が個性豊かです。ひっそりと咲く山桜の粋な素の美しさと、そして存在感のある山桜の巨木に見とれるのも楽しいものです。

 樹齢数百年も生きてきた山桜もあれば、7〜80年が寿命だというソメイヨシノもあります。ソメイヨシノは江戸の植木屋さんが、オオシマザクラとエゾヒガンをかけ合わせて新品種としてつくり出したものだそうです。山桜は何万年もの時を経て命が受け継がれてきた品種であるから、寿命も長いのでしょう。いずれにしても、風雪に耐えて春を迎えて咲く桜は美しいものです。

 環境汚染がすすんでいます、植物たちは二酸化炭素を取りこんで酸素を生みだし、空気を浄化してくれます。地球環境を破壊してきた人間は、二酸化炭素削減をも商取引の対象にしてお金儲けをしています。天地の恵みに支えられて人も一切の生きものも、ともに生きていけるのです。地球環境を保全することは人間の当然の責務です。
 大気が汚れているのに今年も桜が綺麗に咲きました。樹齢何十年もの桜からすれば、以前はもっと空気が澄んでいたでしょう。人間の傲慢な振る舞いのために桜も病んでいます。桜からすれば、美しい花を咲かせるから、もうこれ以上大気を汚さないでくださいと語りかけているようです。

 三月に入ると桜の開花予想に人々の関心が集まります。南北に長い日本列島を桜前線が北上していきます。春を待ちこがれていたからこそ、桜が咲くと人々の気持ちはなごみます。
 桜の開花を心待ちにして、咲き始める桜に心おどろかせ、咲けば一時でも長く咲き続けることを願い、散りゆく桜にもに感傷的になる、古今東西、日本人の桜にこめる思いは熱いものがあります。

花の色はうつりにけりな 徒に 我が身世にふるながめせしまに   小野小町

 少子化で生徒がいなくなり廃校になってしまった校庭に、今年も桜の花が咲きました。この学校で学んできた子供達の声が桜の花の中から聞こえてくるようです。
 古くからあるお墓にはよく一本桜の古木があります。ご先祖や亡き人の霊を宿して今年も咲きました、やさしかったお母さんの思いがよみがえってきます。ご先祖さまも、亡き母も、この桜を見ていることでしょう。

 時は移りました、戦争の悲惨さを目の当たりにした桜の老木にも花が咲きました。桜は人間に平和の尊さを語り続けているかのようです。そして、4月は出会と別れの季節でもあります。
 桜は人間達の悲喜こもごものドラマを見下ろしているかのように咲きほこっています。そんな桜を見て人は喜んだり涙したりもするのでしょう。

 毎年、同じように桜は咲くけれど、その桜の木は去年のものではない。同じところにあって同じ桜の木に花が咲くのに、どうして同じでないというのでしょうか。桜の木は、同じ場所から移動するということはありませんが、桜も生きものであるかぎり、桜という木をかたちずくっている数億の細胞は、たえず生き死にをしていますから、目前に咲いている桜は、もはや去年の桜ではないのです。

 桜は寒暑をしのぎ生きて今年も枝いっぱいに咲きました。でも、来年も枯れずに花を咲かせられるかどうかはわかりません。同じように、この秋が五穀豊穣となるか否かだれにもわかりません。豊年になるかどうかの予測がつかないのと同じく、人は自分の人生が先々どうなるのか、これまた予測できません。人生の先が見通せるとしたら、人の生き方も変わるでしょうが、そういうことはありえません。日本人は桜の花に自分の人生を重ねて見ているのでしょうか。

桜花ちりぬる風のなごりには 水なき空に浪ぞたちける   紀 貫之

 山の神が野に降りて、やがて田の神として人々に五穀豊穣の恵みをもたらす、そのように農耕民族は古来より信じてきました。恵みをもたらす山の神の不思議な霊力が、冬の間眠っていた桜の枝いっぱいに花を咲かせるのです。春になり生きものはいっせいに命の輝きを増し、その動きが活発になります、新しい生命を誕生させる動きが始まるのです。

 山の神の霊力とは自然の摂理のことですから、それは生きとし生けるすべてのものに、みな平等におよぶものです。そしてどの命も他の命にささえられて生きていくことができる、どの命も他の命によって生かされている。桜の花とても自力で咲いているのではなく、大地自然が咲かせているのです。生きとし生けるものはみな、互いに生かしあっているから生きられる。桜の花とても、あらゆる命が生かしあう、そうした共生きによって咲いているのでしょう。

 春を迎えて桜は花を咲かせ、花が散ると新芽を出す。暑い夏の日を受けて成長して、秋には葉を落とし、やがて寒い冬を耐え忍んでまた春に花を咲かせる。一年365日、春夏秋冬、桜も人も同じ時間を生きています。
 幾星霜の月日を重ねて生きるかは、それぞれにちがいはあるけれど、桜も人もこの世に芽生えていつかは朽ちて滅していく。今の命は去年の春夏秋冬を生きた命ではなく、いつも新しい命として生きています。桜も人も命の姿になんのちがいがあるでしょうか。

 伊勢物語に「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」と、この世の中に桜というものがなかったなら、春になっても、咲くのを待ち遠しがったり、散るのを惜しんだりすることもなく、のんびりとした気持ちでいられるだろうに、と詠んだ歌があります。
 この歌に「散ればこそ いとど桜はめでたけれ うき世になにか久しかるべき散るからこそ桜は美しいのでしょう、この世に永遠なるものなどありはしないと、別の人が歌を詠んだとあります。桜は惜しまれて散るからこそすばらしい、この世に永遠なるものは何もない。

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