第112話  2008年5月1日
雨奇晴好
                 

雨もまたよし 晴れればまたよし  蘇軾(蘇東坡)

自然の生きものたちは、ただ無心に生きている

 東の空が白みはじめる黎明の時刻になると、それまで静まりかえっていた空気を破るかのように、第一声の鳥のさえずりが聞こえてくる。すると、それに呼応するかのように他からも鳥の鳴き声が聞こえ始め、そして、あちらからも、こちらからも、さまざまな鳥たちの「今日が始まるよ」という声が、言葉のように聞こえてきます。生きものたちが最も活き活きしているのが、朝の一時です。

 5月は生命が躍動する時節です。木々の緑は深みを増し、花を咲かせる、生きものの多くがこの時期に子孫を産み育て、鳥や昆虫、動物たちが一年で最も命の輝きを見せるのもこの時期です。
 生きものたちは、生きるということになんの疑問もなく、自然現象の如くに命を躍動させています。それは子孫を残すという遺伝子のはたらきのままに生きているという姿のように見えます。

 生きものたちの命が最も輝く季節ですが、人間社会ではこの時期に悩み苦しむ人が多くなるようで、五月病などともいわれています。4月から新年度が始まり、仕事や勉学で、また生活環境でも変化がある季節です。そして、ようやく慣れてきたのがこの5月。はつらつとして仕事や勉学にとりくみ、新しい生活環境を楽しんでいる人もあれば、変化に馴染めないとか、疑問を感じたり、意欲がわかなくなったり、明暗が別れてくるのもこの時期でしょうか。

 春夏秋冬の季節がある自然環境のもとでは、この時期に生きものたちの新しい命の誕生が集中します。だから、生きものたちにとっては短い一生の中で最も命輝く時節です。自然の流れのままに生かされている生きもたちは命が輝いているように見えます。それはあたえられた命をただ無心に生きているからでしょう。

手放してこそ大切なものが手に入る

 自然界の命のいとなみとは、ただひたすらに子孫を産み育て、それぞれの遺伝子を残すことです。風が吹けば風に吹かれ、雨が降れば雨に降られて、ただひたすらに、それぞれの種の命を残すことが、すなわち生きることです。自然界ではあらゆる生きものの命が直接に、また間接的に関係し合って、すべての生きものがその種を残せるようになっています。これは大自然の法則です。

 ところが人間も生きものの一つの種であるのですが、知能が発達してきたから、他の生きものとちがって欲というものがあります。その欲のために自然界の絶妙な命のバランスを壊してしまい、多くの種が地球上から消えてしまいました。そして地球温暖化と人口増加がさらなる拍車をかけています。
 また欲のために人間は他の生きものとちがった生き方をするようになり、ただひたすらに子孫を産み育て、遺伝子を残すことだけを生き方の基本としなくなってしまったのです。

 長寿社会では子を産み育て終わっても、なお長く生きることになり、それで人々は老化に伴う苦しみとともに、さまざまな悩みを抱えることになりました。現代人は子を産み育てることのみに生きる意義を見出さなくなったために、少子化現象をきたし、また子育ての様子も変わってきました。加えて経済のグローバル化は新たな格差社会のひずみをつくりだしています。
 高齢化に伴う悩み苦しみ、ストレス社会を生きることによる心身の悩み苦しみ、そして格差社会の広がりに順応できない人の悩み苦しみ等々が多くなりました。

 社会の変化にともない、自分ではどうしようもないことも多くなってきましたが、自分の力で生きなければならないから、悩み苦しみの根源となる欲について、どう思い、どう生きるかが問題です。
 あれも欲しい、これも欲しいと思えば思うほどに手に入れることができない。ああもしたいこうもしたいと思えば思うほどになにもできない。どのように自分は生きていくべきかと思えば思うほどにわからなくなり、欲しいものを手に入れようとすれば、もっと大切なものを失ってしまうこともあります。
 欲のこだわりからしばし離れてみると、とてもつまらないことにこだわっていたのかと気づくことでしょう。そして、大切なものがなんだったのかが、自ずとはっきりとしてきます。

白か黒か、あれかこれかのこだわりを忘れて

 最近、胸が痛む事件が多く、しかも連鎖反応のように多発しています。「誰でもいい」という無差別殺人事件と、硫化水素による自殺です。
 「誰でもいい」無差別殺人は動機と現場の状況にちがいはあるけれど、面識のない他人を殺害することと、犯罪者が刑務所に収監される処遇を想定した行為であることも共通しています。また硫化水素による自殺は、入浴剤とトイレの洗剤で致死量の有毒ガスを発生させ自殺するという、そんな情報がネットで流れると、自殺願望のものが相次いで死んでいったのです。

 「誰でもいい」という無差別殺人は、善良な人の命を突然奪うという残虐非道な行為です。また硫化水素による自殺も、他人を巻き添えにしかねない危険なものです。人の命を奪う殺人犯も、己が命を落とす自殺者も、自分の心の落ち着きどころがない、安心して身の置ける居場所がないことが共通しているようです。自分の身も心をも、自分のものとして受けとめられなくなったところから悲劇が始まってしまうのでしょう。自己否定と現実逃避が殺人や自殺につながっていくようです。
 こうした殺人も自殺も自暴自棄のはての所行でしょうが、無差別殺人にあった被害者の無念さ、家族の悲嘆は深く、犯人への憎悪はいつまでも消えないでしょう。また自殺者の家族の失望と悲しみも、長い間癒えることはないでしょう。

 「人を殺してみたい」という動機だけで、若者が平然と無差別殺人を犯すようになった。今の若者たちの間で蔓延する閉塞感と無縁ではないと犯罪学の専門家は語っています。相次ぐ若者の自暴自棄ともいえる凶行は、この国の閉塞状況を反映しているという見方もあります。
 格差社会のひずみが、雇用不安や引きこもりやニートを生みだした、希望を失った若者が破滅願望を募らせ、不満を爆発させているというのです。若者は高校や大学でひとたび進学・就職に失敗すると、自分を敗者だと思い込んでしまうのでしょうか。若者を破滅に走らせるのは、競争格差社会のひずみともいえるのかもしれません。

 いずれの行為も、そこに至らしめるまでの生きてきた時間と体験、すなわち、生活環境や生活体験などの生きざまの延長線上に自暴自棄になり現実逃避する行動が起こったのでしょう。 
 青年に挫折や苦悩はつきものです。昔はナニクソでがんばれたが、今は遠回りが許されない社会なのでしょうか、競争に負けた若者に待っているのは孤独と絶望なのでしょうか。
 世の中のすべてのことが黒か白かとはっきりするわけでもないのです。ことの善悪などすぐに正しい判断がくだせないことも多く、曖昧なこともあります。好き嫌い、イエスかノーか、対立することの多い世の中ですが、このこだわりをやめてみると、案外肩の力も抜けて穏やかな気持ちを取り戻せるものです。

天地に我一人です、自信を持って生きていきましょう

 自然界においては、どの生きものも、それぞれの子孫を産み育てるために生まれてきて、死んでいきます。なぜ生まれてきたのか、なぜ死んでいくのかという疑問も、どう生きるべきかの意識も無用です。ただ風の如く、雲の如くに生きている、そうした生きものたちの姿こそ自然です。知能が発達した人間だけが悩んだり苦しんだりして不自然です。
 
 人間には欲があるから苦しみや悩みが生じます。その苦悩を解消しょうとして、さらに苦しみ悩むのです。なぜ生まれてきたのか、なぜ死んでいくのか、それはいくら考えをめぐらしてみても結局はわからないことです。わかっていることはこの世に生まれてきたこと、そして生まれてきたものは必ず死んでいくということです。人間は知能が他の生き物とくらべようもないくらいに発達しているから、思い悩むことが多いのです。

 長生きしたいという人間の願望が高齢化社会をつくり、一方では子を産み育てることに意義を見出さなくなった結果、少子化の社会が到来してきました。子供を産み育てることを第一義としなくなったために離婚が多くなり、両親揃って子供が育てられないという状況も生じています。また親子の情愛がいびつになり親子が殺しあうという悲劇まで生じています。
 健全な子育てがなされないと、子供は成長過程でゆがんでしまい、命の尊厳についての認識や、善悪の判断ができない大人になってしまいます。また格差社会のひずみもあって、犯罪が多発するでしょう。犯罪や自殺に走る可能性のある若者が多いと思われますが、悲劇を生まないためにどうすればいいのか、お互いが思いをめぐらさなければいけません。

 うまく生きていけないと悩み苦しんでいる時、生き方がわからなくなってきたと感じる時、過度に自分をせめたり見つめすぎたりしないで、万物を慈しむという気持ちを持ちたいものです。
 たまには早起きをして、小鳥のさえずりの第一声に耳をかたむけてみませんか。大空の雲の流れゆくさま、風が吹きぬけてゆくさまを、自然のままに感じ取ってみるのもいいでしょう。無心になって万物を慈しんでみると、心は少しずつ満たされていくでしょう。鳥や昆虫、動物たちのように、今、只今を懸命に生きる、このことが最も大切なことです。

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