第115話    2008年8月1日
   むつ     おちこちまよ ともがら
   六の道 遠近迷ふ輩は 吾が父ぞかし 吾が母ぞかし 道元禅師
      
        
 命のふるさと 
 

伝承のまつり
 

 関西の夏は暑い、そして8月はお盆ぼんの月です。盆とは盂蘭盆うらぼんを略したもので、もとはインドの言葉で、ウランバナ(倒縣さかさずりの苦しみ)が語源だそうです。
 お釈迦さまの十代弟子の一人で神通力じんつうりき第一といわれた目連尊者もくれんそんじゃが、亡母があの世で逆さづりの苦しみにあっていることを知り、僧侶の90日間におよぶ修行が終わる7月15日に百味の飲食を衆僧に供養して、その功徳をもって亡母の苦患を救ったという由来が「仏説盂蘭盆経」にありますが、この故事に基づいて盂蘭盆会が行われるようになったと伝えられています。

 日本には古来から先祖を迎えまつる精霊まつりがあったそうですが、仏教の伝来とともに盂蘭盆供養と結合して、お盆の行事が行われるようになったといわれています。そして実りの秋の豊穣と一家の安寧の祈願を合わせて、今日のお盆のおまつりがかたちずくられてきたようです。

 故郷の両親のもとに、家族そろってお盆に里帰りする、そういうのもお盆の光景です。でも年が経れば両親は故郷にいなくなり、子供達も成長して家を離れていくと、やがて故郷も遠くなってしまいます。先祖を迎えまつるためのお盆休みが、自分たちの夏期休暇に変わってしまった人もあるようです。

 とくに都市部では仏壇のある家でも精霊を迎えまつるというお盆の意味あいが薄れてきたようです。仏壇にホオズキやスーパーで買ってきたお盆の供物セットが供えられていますが、盆棚を設けて精霊を迎えまつるという伝承のまつりのかたちは消えつつあるようです。                                        

精霊むかえのまつり


 盆棚を設けて先祖霊や亡き人の精霊を迎えまつるお盆のおまつりは、地域によって、また家によってもかなりの違いがありますが、いずれもその地域や家の伝承行事になっています。近年この伝承行事の継続が危ぶまれています。
 世代同居家族から核家族、あるいは高齢者の独居家庭へと家族構成が変わったこと、仏間を家の中心とした生活様式が様変わりしたこと、生活意識や価値観の変貌も著しく、お盆の行事が伝承されなくなってきたようです。

 家族みんなで盆棚を準備してご先祖さまをお迎えします。お供え物やまつりごとのしきたりを親は子に教えます。なぜ精霊をお盆にお迎えするのか、そのお迎えの仕方、まつり方、送り方を親が子に教えることでお盆のおまつりが伝承されてきたのです。

 日本人には盆と正月にご先祖さまを迎えて一時をともに過ごすという風習があります。お盆には盆棚を設けてご先祖や亡き人の精霊を迎えて、この世で共に一時を過ごしていただきます、精霊とのふれあいがお盆です。

 「お墓の前で泣かないでください、私はそこにいません」という「千の風になって」の歌の文句がありますが、お墓には亡骸が葬られていますから、祖父母や両親の命の落ち着きどころとしてお墓に安らかに眠ってられると思い、親密な思いで墓石に手を合わせます。そしてお墓は黄泉よみの国に通じるところですから、お盆にはお墓に精霊を迎えに行きます。

万霊供養のまつり


 「千の風になって」という歌が、大切な人を亡くした悲しみを超えて、生きる心の糧となって、多くの人々に安らぎと生きる勇気をあたえています。亡き人が風となって地上に吹きわたり、また雪や雨となって大地に降りそそぎ、草木として花を咲かせ微笑み、鳥になってささやきかける。亡き人の姿を森羅万象にイメージして、亡き人とともに生きていくのだというところに、日本人の心に響くものがあるのでしょう。

 日本人は、山川草木、生きとし生けるもののすべて、この世に存在している万物、すなわち森羅万象とともに人は生きている、人も森羅万象の一つにすぎないという考えかたをしています。
 そして亡き人は消滅してしまったのではなく、大地に帰り、精霊として森羅万象に生き続けていると信じて、それでお盆にはお迎えしてまつるのです。そして人は森羅万象の恵みを受けて生きていますから、森羅万象の万霊をも迎え供養します。盆棚には万霊のための供物も準備されます。

 先祖霊は命の源です。一度もとぎれることなく何万、何千年も連続してきたからこそ、今の私がそしてあなたがあるのです、この命の連続こそがご先祖さまです。命の源から連続する尊い命をいただいて、この世に生を受けたのです。
 お墓は命の源の標です、お墓に手を合わせることは、命の源から連続している尊い命をいただた我が身の命に手を合わせていることになるのです。よくお墓参りして墓石に向かって「墓参りに来られてなくてゴメンね」とつぶやく光景を目にすることがありますが、それは自分自身の生き方を戒めているのでしょう。

 ずっとつづいて絶えない命の源がご先祖さまです。私達は連綿する尊い命をいただいて、この世に生を受けたのです。だからお盆には六親眷属ろくしんけんぞく七世父母しちせのぶも[父・母・妻・子・兄弟・姉妹等、親しい関係にある親戚と、父母から更に七代にさかのぼっての直系先祖]の御霊みたまをお迎えします。
 そして人はただ一人ではいきられません、森羅万象の恵みを受けて生きていますから、有縁無縁うえんむえん三界万霊さんがいばんれい法界含識等ほっかいのがんじきとう[欲界・色界・無色界の凡夫世界と一切この世のすべての精霊]も盆棚に迎えまつるのです。
 
慈悲の心のまつり

 精霊迎えのお盆のおまつりを通して命の不思議、命の尊厳、自然との関わり方、そして人生について、学ぶことがとても多いようです。精霊まつりは命のふれあいです、子も親もお盆のまつりごとから、この世に命をいただいて今、生きている幸せの実感を味わうことができるのです。しかし近年お盆のおまつりさえもが、うとんじられがちです。子も親もお盆のまつりごとから学ぶことがとても多いのに、簡略化されていくようです。

 お盆の精霊まつりは、今、生きていることを喜び、命を大切にして、家族みんながともに手を携えて生きていくことをご先祖さまにお誓いするおまつりでもあります。
 お盆の精霊まつりは、命をたたえる、すばらしい日本の伝統行事ですが、近年この伝承が危ぶまれています。これは命の源である先祖霊にふれ、やさしさの心を取り戻す機会が持てなくなってきたことを意味します。精霊をお迎えして、ほんの一時にすぎませんが、ともに過ごさせていただきたいものです。

 最近の日本人には生きる意味を見失った人が多いようです。自暴自棄になって他の命を殺める悲惨な事件が多発しています。生きる希望を失って自らの命を絶つ人が後を絶ちません。そして高齢化社会では老いの長い時間を生きることになりますが、少子化社会ですから老いてもなを自活せねばなりません、せめて心豊かに生きたいものです。

 お盆にご先祖の霊とふれあうことによって、物や金では満たされない心の豊かな気持ちになれる、このうえもない安らぎをえることができます。精霊と共に過ごす時間は短いけれど、私達それぞれが命のふるさとである祖先から連続する尊い命をいただいて、この世に生を受けた喜びを全身で感じとることができます。
 命のふるさとからお迎えした精霊と一時を過ごすことによって、だれもが生まれながらにもっているやさしさの心をよみがえらせることができます。忘れかけていた何かを取り戻すことができるでしょう。何が幸せであるのか、お迎えした精霊さまが教えてくださいます。それはあわれみと慈しみの慈悲の心をもって生きることでしょう。

 

   六の道 遠近迷ふ輩は
     吾が父ぞかし 吾が母ぞかし
 
                     道元禅師

 
地蔵菩薩は六道に迷うものをすべて救うという悲願をたてた菩薩です。六道世界をさまよい歩くすべてのものを地蔵菩薩はあわれみと慈しみの慈悲の心で救ってくださる。あたかもそれは我が父の悲しみの声、我が母のあわれみの声の如くであり、盆棚にいますが如く聞こえてくる。

精霊棚のまつり方

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