2009年4月1日  第123話
            春 風     
      
  
あずさ弓 春の山風 吹きぬらん 峯にも尾にも 花匂ひけり

                                      道元禅師
                    

花見の宴は、山の神のご降臨の前祝い


 あちこちから桜の花便りが届きはじめると、寒い冬が過ぎて暖かな春を迎えた喜びを感じます。この時期は年度当初でもあり、入学、就職、仕事など、さまざまな始まりがあります。新たな一歩を踏み出す人に花を添えるかの如くに桜が開花しますから、人生の節目を飾る花として、とても印象深いものがあるようです。

 桜の花が咲きはじめると心もそぞろになり、人々は落ち着きません。昔も今も、老いも若きも、桜の花のもとで酒盛りをして花見の宴を楽しむのは日本人の慣習です。農耕民族である日本人は古来より農事の始まる季節をむかえる前祝いとして、花見をしたようです。


 京都の丹波地方では古来より農事が始まる頃の5月8日に、家の庭に天高く山の神をむかえる天道花(てんどうばな)を掲げる風習がありました。しかし近年この天道花を見かけることは、ほとんどありません。これは山の神が田の神になって農事の加護をしてくれることを願うというものです。天道花にはシャクナゲとかツツジが用いられます、長い竹の先に花を結わえて庭先に高く掲げて山の神のご降臨を願いました。

 このようにして田の神を招くのですが、農事の始まる前に枯れ木に花が咲く、すなわち桜が咲くのは、山の神が里に降臨する前触れであると古来から信じられてきました。それは山の神の降臨の兆しですから、農事を始める前祝いをしました。豊作の願いをこめて、咲いた桜の下で山の神をもてなし、酒盛を楽しむ、これが日本人の花見の慣習になっているそうです。

大きな力、偉大な力をもった神仏のご加護を願う

 中国では桃の花に霊力があると、日本では桜の花に霊魂が宿っていると信じられてきました。墓地にあって匂うが如く咲く一本桜の古木には先祖の霊が宿っていると、土地神の祠に山桜の巨木があれば、その桜には氏神の霊が宿っていると考えられています。古来よりそうした桜は大切にされました。


 
近年は農作業も機械化されて、豊作を願い山の神を迎えて田の神とすることも、山の神が田の神になるという話さえも語り継がれず、山の神の存在は小さくなりました。そして花見は農事の前祝いだということも、その意味も理解されなくなりました。もちろん山の神は先祖霊であり、山のあなたにある黄泉(よみ)の国、冥土(めいど)から来るなどということは、今では御伽噺(おとぎばなし)のようです。

 先祖霊である山の神のご降臨をあおぎ、田の神となっていただき、豊作をもたらしてくれることを願います。先祖霊は正月には歳神(トシガミ)さまとして門松を立て、お盆には精霊(ショウリョウ)として迎え火をたいて、
山の彼方の黄泉の国、冥土からから迎えて感謝の心でもてなします。また春と秋の彼岸には先祖の墓参りをします。これらは古来から受け継がれてきた風習です。

 先祖霊は歳神、山の神や田の神であり、加護してくれる力強い守護神です。米や食物が不足することなく恵まれることを願い、いつどこでどんな災難に遭うかもしれないから大きな力、偉大な力をもった神仏の加護を信じました。
 古来より亡き人は冥土に至り、先祖霊となって、子孫を加護してくれると信じてきました。
先祖霊は遠くにあっても子孫のために瞬時に飛来してくれるけれど、仏壇に位牌を、墓地には墓石を立てることで、身近にその存在を感じて日々の生活で安心を得てきました。


先祖は命の源

 生きとし生ける、さまざまな生き物はみな、太古よりそれぞれの命が受け継がれてきたから、今この世に生きています。そしてまた子孫に命をつないでいくのです。その命の過去の連続がご先祖さまです。だから先祖は命の源です。そして死んだら再び先祖のもとに帰っていきます。お葬式の白木の位牌に、お戒名の上に新帰元と書くのはそのことを意味します。

 人は死ぬと命の源である先祖のおわす冥土に帰ることになります。それで遺体を冥土に送り出す式が葬儀です。また冥土に至る黄泉路(よみじ)49日間かかるとされています。この49日間に中陰(ちゅういん)のおまつりがおこなわれます。葬儀や中陰のまつりは日本古来の民俗信仰と仏教の教えが合わさったかたちで、それぞれの地方の風習によっておこなわれてきました。


 中陰の49日間を経て無事に黄泉路をたどって冥土に至ることを願いながら、亡き人の荒(アラ)の御霊(ミタマ)を鎮めて和(ニギ)の御霊になっていただくための供養も続けます身内を亡くして悲嘆に沈みながらも、葬送の儀と中陰のまつりに没頭しているうちに、家族の悲嘆もしだいに癒されて、平常の生活を取り戻せるようです。

 先祖霊として、子孫を加護する御霊(ミタマ)になっていただくために、さらに年回法要など、亡き人への供養を重ねます。亡き人は年月を経て、やがて(ニギ)の御霊の先祖霊となり、山の神、田の神、歳神(トシガミ)として子孫を加護します正月には歳神として迎えられ、子孫に一年の幸せをもたらし、盆には精霊(ショウリョウ)の仏(ホトケ)として迎えられ、子孫と数日間を過ごすことになります。時代が変わっても、昔も今も、先祖霊は命の源であり子孫を加護してくれる守護神です。


冥土への旅立ちは、大いなる命の循環です

 病気感染の恐れがあると思われる場合を除いても、ことさらに死を忌み嫌うあまりに現代人はややもすれば身内の遺体にさえ触れようとしません。また湯灌(ゆかん)や納棺(のうかん)の仕方が伝授されていないので、かつては血縁地縁の者がおこなっていた湯灌や納棺を専門職にゆだねるようになりました。アカデミー賞に輝いた「おくりびと」の映画に登場する納棺師という職業はこうして出現したのです。

 かつては地縁血縁の者の手によって湯灌し、旅立ちの衣装に着替え、旅立ちに必要なものをととのえ、仏教徒であれば戒を授かり仏弟子となり、遺体は棺に納められ輿に担がれて、野辺送りの行列をしました。そして弔いの場である墓場で、念誦し引導をわたされて墓穴に納まりました。

 ほんの20~30年前まではだれもが納棺師であり葬儀社でした。地縁血縁のものが湯灌や納棺をおこない葬儀も執行したので、納棺師も葬儀社も不要でした。しかし都市部では地縁血縁の結びつきが弱く支えがないので、葬儀社が葬儀全般を取り仕切るようになりました。この傾向はやがて地方にも波及していきました。

 最近の葬儀は住み慣れた家から出されず、葬儀会館で
葬儀屋さんが血縁地縁の者にかわって取り仕切るようになりました。亡き人を冥土に送る葬儀が、告別式のかたちになり、ビジネス化され商品となったのです。

 もともと葬儀は冥土への旅立、冥土への送り出しの儀式ですから、告別式という故人との別れの式ではありません。人の死は悲しみであるけれど先祖霊になる始まりでもあり、葬式は先祖霊となるための旅立ちの儀式です。

 人は命の源である先祖から命をいただいて、この世に生まれてきました、そして死んで、また命の源である先祖のもとへ帰っていきます。冥土への旅立ちは大いなる命の循環であり、亡き人が先祖霊となっていく送りの儀式が葬儀です。
 人は死んで先祖のもとへ帰って子孫を加護する先祖霊となり、山の神として里に下りて田の神ともなる、その前触れに桜の花を咲かせます。したがって花見と葬式とは無関係ではないようです。
 先祖から受け継がれてきた命をいただいて、人としてこの世に生まれてきました。その命は咲く花の如く儚いものですから、満開の桜のように今、命を輝かせましょう。

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