唯独り黄泉に赴くのみなり、 己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり 道元禅師
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霊魂のタタリや、お告げ、オシラセはあるのでしょうか
先祖の霊がのりうつってお告げをするとか、霊魂がタタル、そういうことがよく話題になります。またタタリとか、のりうつりすると考えられている怨霊が存在しており、時に恐ろしい力を発揮しているのでは、などと、テレビのお茶の間番組になることがあります。
山はもちろんのこと、大木や大きな岩、滝や川にも霊魂があると考えられています。これらは人々に恵みを授ける神として神格化されて、人々に大切に扱われてきました。ところが一方では、不自然な死に方をしたり、非業の死をとげた人の怨霊が、魂が鎮まることなくさまよってわざわいをするなどと、人々に恐れられ語り継がれているものもあります。
息をひきとる寸前に霊魂だけが縁者やお寺に来るということも、迷信ではないかもしれません。夢の中に訪ねてくる人があって、不思議に思って目を覚ました、ちょうどその時に、夢に現れた人が息をひきとったとは、これもよく語られることです。世の中には科学で割り切れないことがあるようです。
人は、時に不思議な現象と考えられることが起これば、それは何らかの霊魂によって引き起こされているのではなかろうかと想像します。冥界にたどり着けなくて迷っている御霊がタタルとか、鎮魂されていない荒の御霊が災いを起こす、などの話も耳にします。こうした霊魂のタタリとする迷信や俗信から、さまざまな問題が惹起することさえあります。
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霊魂はあるのでしょうか
亡き人の霊のタタリとか、亡き人や先祖の霊がとりついているとか、こういうことはよく人々の話題にのぼりますが、不幸にあって気持ちが動揺している人の弱みにつけこんで、こうした語り口で入信をすすめる宗教もあります。また霊感商法にまどわされて財産を奪われてしまった人もあるようです。
人間は死んでしまうと肉体は滅しても霊魂は残るのでしょうか、という質問を僧侶はよく受けます。人は亡き人への追慕の念から、その人の魂が永遠に存在してほしいと願い、霊魂の存在を信じようとします。人間は死んで肉体は滅しても魂は残るという考え方は、太古の時代からさまざまな民族において、そう考えられてきました。
また生命が連続して子々孫々に受け継がれていくことから、命の連なりは魂の生まれ変わり死に変わりであり、世代を超えて永遠に魂は存続していくとする考え方があります。人は精神すなわち魂によって、その肉体をつかさどるという考え方からすれば、人は死んで肉体は滅しても、霊魂は永遠に残るものと考えられてきました。
魂は人間の死後も永遠に残るという考えがある一方で、人間が死ぬと同時に魂も滅するという考え方もあります。古来よりこのいずれであるかという論争も繰り返されてきました。古代の人々は霊魂は肉体から自由に出たり入ったりするものであるという考え方をしましたが、現代でもそういう考えのもとに生活している民族もあるようです。日本人は古来から、人は死ぬとその魂は冥土に赴き、先祖霊となり、盆と正月にはあの世とこの世を行ったり来たりすると考えられてきました。
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霊魂(ミタマ)と仏(ホトケ)
天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄を六道の迷いの世界として、六道輪廻が説かれています。そしてこの迷いの世界を超えたところに声聞・縁覚・菩薩・仏という悟りの世界があると説かれてきました。亡き人の霊魂が来世に生まれ変わって六道輪廻するとか、地獄か極楽に生まれ変わるとか、古来から迷いや悟りの世界への生まれ変わりが説かれてきました。
ところが仏教では死後における霊魂の生まれ変わりを説きません。肉体と精神・心は一つのものであり、人間が生きている時のすべての行為を業として、肉体と心は滅しても業は存続すると説きます。仏教では、迷いや悟りの世界を超えた仏の世界に安住することを願いとし、この世にも、のちの世にも、迷いにも、悟りにも執着しない生き方を説いています。
日本人の民族信仰では霊魂の存在を前提として、古来より先祖の霊魂(ミタマ)をまつり、先祖霊を崇拝することを信仰の基本としてきました。ところが仏教では人の死後に霊魂が残るとは説きません。人間が生きている時のすべての行為を業として、死後もその業は消えることなく残ることになるとして、霊魂ではなく業の存続を説いています。 亡き人の荒(アラ)の魂は供養が重ねられてしだいに和(ニギ)の御霊であるホトケに鎮魂されていきます。仏教の伝来とともに日本人の民族信仰である御霊と仏教の業の教えとが見事に融合して、霊魂(ミタマ)を仏(ホトケ)として崇拝するようになりました。
心のよりどころを先祖の霊にもとめ、先祖霊に見守られて安心を得る生き方が日本人の民族的な信仰です。霊魂があるのかないのかという論争よりも、生きていく上での安らぎを求めることが仏教の説くところですから、人間が生きている時のすべての行為である業、すなわち人の生き方こそが問われるのです。それは仏教の説く大慈悲心の仏として崇められる先祖霊になるための精進努力を意味します。
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魂をみがき、魂の向上をめざす
迷悟の世界を超えた大慈悲心の仏さまである亡き人の御霊あるいは祖霊が人々に罰を与えたり、人を不幸にすることなどありえません。亡き人の霊や先祖の霊がタタル、とりついたりするというのは、ことごとくが迷信です。そういうことを信じて、いたずらに気持ちを動揺させたり恐れたりしないことです。
仏教では因果の理法を説きます。因果はすべてに原因があっての結果です。したがってタタリがあるからと心配する人は、自分の心の中にタタリを心配するなにかの原因があるからでしょう。わがまま勝手な生き方をしているうちに、自分自身がタタリを恐れる原因をつくってしまうからです。
日本人は霊魂を祖霊としてまつります、祖霊は子孫を加護してくれる、その守護により安心な日々が暮らせるのでしょう。先祖は自分自身の命の源でもあります、年回法要や先祖をまつることが善行です。善行を積み、先祖の恩コに感謝する気持ちを持つことは大切なことです。報恩感謝の気持ちをもつことによって、心静かな日々となるでしょう。
たった一度の人生です、己の人格の向上なくして幸せな人生はありません。小さなことにこだわったり、わがまま勝手な心を放れて、天の声、真実の声を素直に聞くことができれば幸せです。めざすところは、悪業をつくらず、今生では常に自らの魂の浄化をはかり、魂をみがき、魂の向上につとめることです。そのことによって後生では大慈悲心の仏であり、尊崇される先祖霊でありつづけるでしょう。
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