「これまで世界に宗教家がどれほど輩出したのか存じませんが、
お茶や御飯を作り、振る舞う仕事、材料、器具までを仏性の全体現成として、
最高の宗教に仕上げ、ここに自利利他の道を開いた宗教家は、
道元禅師以外には発見されないということは、わたくしの少見でしょうか」
(橋本恵光老師)
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食事をつくることと、食事のいただき方の教え
道元禅師は食事をつくることの教えとして、食事をつくることの意義や心構えを「典座教訓(てんぞきょうくん)」を著して説かれました。また、食事のいただき方としてその心得や作法を「赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)」で説き示めされました。
いずれも食事においての修行僧が心得るべきことを説いたものですが、その内容は一般の人々にも広く通じることばかりです。生命とは何か、人と人、人と自然との関わり方、食事をつくること、食事をいただくことが、そのまま人の生き方に通じます。
禅の修行をするお寺では、食事担当の修行僧のことを典座(てんぞ)といいます。道元禅師は食事をつくることを大切な修行の一つとされました。食事をつくることがそのまま自己の人格形成につながるからです。それで禅寺での典座は十分に修行を積んだものでなければつとまらない、とも言われています。
どんな食べ物でもみな命ですから、命と命が向き合うことが食事をつくることであり、食べるということでしょう。食事をとることは生命の維持であり、食は人間の本質そのものです。
食事をつくること、食事をいただくことは、そのままに自己の人格形成につながります。禅の修行をするお寺では、食事をつくること、食事のいただき方として、その心得や作法を尊び、修行の基本とします。
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何ごとにも真剣に取り組む姿勢が生き方です
デパートやスーパーの食料品売り場には世界中から集められた珍味や高級食材まで、食物があふれています。高価なものから安価なもの、鮮度のいいもの、旬のもの、さまざまな食材の味をうまく生かす調理の工夫がもとめられます。同じ食材でも、そのものの持ち味が生かされているかどうか、食材の取り合わせはどうだろうか、さまざまな注意がはらわれるべきでしょう。
人の舌には甘味、塩味、酸味、苦味などの味覚を感じるところが異なるようです。食べ物の味は甘味、塩味、酸味、苦味、辛味、渋味が組み合わさったものです。このほかに旨味のかくし味が出せることも料理の工夫によるところです。
包丁(庖丁)の庖の字は料理場のこと、包丁とは料理人のことです。同じ食材でも、つくる人によって大いに変わるものです、調理法や味付け盛りつけによっても、味わいや楽しみ方がちがってきます。
お米を洗うことを米を研ぐといいますが、洗い流す時も一粒のお米も無駄にできません。また砂や混在しているものがあれば取り除く注意が払われなければいけません。炊きあがりの美味しさを考えると水加減にも細心の注意を払います。古米、新米、銘柄によってもちがいがあるはずです。一粒のお米にも、一枚の菜っ葉にも命が宿っていますから、粗末にできない、もったいないの気持ちが大切です。
食材をお店で買う時の心得も必要です、無駄に買いすぎると冷蔵庫で腐らせてしまったり、食材を無駄にしてしまいます。育ち盛りの子供や、ご主人の職種によっても、また、お年寄りや病人のいる家庭など、栄養やカロリーにもさまざまな配慮が必要でしょう。
つくる人は食べる人のことを考えてつくります。食べる人はつくってくれた人の心を感じていただいているでしょうか。台所の整理清掃も心掛けねばなりません、そして食器や調理器具にも心をこめて用いることも、食事をつくる人の心得ごとです。
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新型インフルエンザの発生は現代の食糧事情から生じたものです
今年になって新型のインフルエンザが世界的に流行しています。国境を越えた人々の交流がある現代では、あっという間に世界中に流行してしまいます。鳥インフルエンザの流行が世界的に心配され、日本でも何万羽という養鶏場の鶏が処分されました。そして今度は豚インフルエンザが世界中に感染の広がりを見せており、これ以上の感染を防ごうと世界中の国々が感染防止の対策におわれています。
日本でも新型のインフルエンザの感染防止のために学校閉鎖がありました。旅行の取り止めによる温泉や宿泊施設、旅行業者の打撃、のみならず商店街やデパートの売り上げもが減少するなど、経済・金融危機で縮小した経済不況がさらに深刻になっています。
人間のインフルエンザが豚や鶏に感染して、そのウイルスが豚や鶏の体内で新たなウイルスに変化して、免疫力がない人に感染して新型インフルエンザを発症させる。新型インフルエンザの発生は現代の食糧事情から生じたものです。
安価で良質な食料を大量に供給するために、一カ所で何万羽という鶏が飼育されています。豚も多くの頭数を飼育する養豚家があらわれました。家畜の飼育用の餌も大量に必要となり、バイオ燃料用途と重なって世界の食物事情が大きく変わってきました。
牛肉として供給された後の骨は粉にされて牛の餌として再利用されるようになって狂牛病が生じるようになった。
今日、さまざまな食品について食の安全が問われています、一方では新型インフルエンザと食とは無関係ではないようです。これらに共通することはいずれも人間が食材として求めるために大量の食料の供給から起こったことです。この種のことは形を変えてこれからも増え続けるでしょう。そして富める国と貧しい国の格差が大きくなるにつれて、世界の食糧事情はますます深刻化していくことでしょう。
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食べ物を目八分にいただいて感謝の心で拝む
グルメという言葉があります、食通とか美食家をさす言葉でしょうが、飽食をも連想してしまいそうです。飽食は成人病や肥満症を引き起こします、また過度の拒食や偏食によって栄養が偏ると感染に対する抵抗力がつきません。食べものを食べて消化吸収されていくのにも一定の時間がかかります、食事のいただき方が健康にとって大切です。食の乱れによって、肉体が病むばかりか心も病んでしまいます。
コンビニの店頭で座り込んで食べ物を食べている若者、ゲームや漫画本を見ながら食物を無意識に口に運ぶ子供たち、これは健全な心と体の発達に影響するでしょう。
修行僧の食事は会話することなく専一に食します、食べることがすなわち自己形成の修行そのものだからです。静かに食事する、楽しく語らいながら食事する、いずれでも食事のマナーとは食の心得に通じるものでなければなりません。
修行僧は応量器という食器で食事をいただきます。朝・昼・夕の食事に必要な器だけを使います。自分で食べられるだけの量をいただく、適量を心得ることを基本とします。使った食器は水を無駄使いしないよう、食作法にしたがって自分で洗います。
最近の親は子供が食べ物を残してもしからないばかりか、食べられるだけの量をいただく、食物を大切にして無駄にして捨てない、好き嫌いを言わない、食事の姿勢、こういうことを躾けとして教えない親が多いようです。いただくとは命が命を食することですから、食べ物を目八分にいただいて感謝の心で拝むことです。
「典座教訓」には、喜心、料理をつくる大切な役割を担うことを喜ぶ心。老心、食べてくださる人のことを思いやれる、やさしさの心。大心、食材についても、食べていただく相手の人などにも、偏りの気持ちをもたず、大きな心で接する。料理人にとって、この三つが重要であると説かれています。
「赴粥飯法」には食事する心得が説かれています。食の乱れは心の乱れです、日常茶飯事という言葉通りに日々に心掛けるべき生活の基本が食事のいただき方でしょう。
「いただきます」の気持ちで食事を正しく行うならば、すべての行動も正しくなるでしょう。
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