2009年7月1日  第126話
          流水腐らず          

               骨もて この城はつくられ
               血と肉もて 固められたり
               中には 老いと死と
               いかりと傲慢(おごり)とが
               蔵(かく)されたり        法句経


生・・・ 人生は帰ることのない旅

 「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」、松尾芭蕉は過ぎゆく月日は客人のようなものと、時の流れと人生をかさねてよんでいます。人生を旅にたとえると、毎日が先の見えない旅の途中であり、時々人はつまずいたり転んだり、泣いたり笑ったりしながら人生という旅をしています。それは長い旅なのか、短いかは予測しがたいのです。

 人生の旅の始まりは誕生です、そしてその人がどういう旅路をたどることになるのかは、誰も予測できません。その旅の出発点も自分で決められない。もっとよいところに生まれてきたらよかったのにと思って生まれてきた人も、生まれてこなかったらよかったのにと不満心をもって生まれてきた人もいません。みんなこの世にとって必要だから、大切な命をいただいて生まれてきたのです。

 旅は楽しいものです、それはまた帰るところがあるからです。旅の終わりになると、もっと旅を続けていたい気持ちになります。すばらしい景色に見とれたり、美味しい食べ物や、よき出会いがあったり、いい湯に入ると極楽で、もうそこから帰りたくない、もっと旅を続けていたいと思う、けれども帰るところがあるから楽しいのです。

 人生は帰ることのない旅です、過ぎゆく時を戻すことはできません。時に人は、立ち止まって自分をふり返って、もの思いにふけることがあります。歩んできた過去に納得したり、悔やんでみたりもします。旅の途中で挫折して、歩く元気をなくしてしまったり、先を見て歩く勇気を失って、座り込んでしまう人もいます。けれども、また人は歩き始めます。それは旅の終わりのあることをみんな知っているからです。


老・・・
 若きは美しく、老いたるは、なお美しく

 あなたはいくつですか?、と、日本人はよく人に年齢をたずねます。長生きすればそれだけ人とのおつきあいが多くなるから、死んだら大勢の人が会葬に来てくださるぐらいで、20歳でも60歳でも、命にちがいはない。老化はさけられませんが、何歳になっても、人は生まれながらに人間という仏です、仏に年齢はないようです。

 人間という仏は、生まれてきた時が赤子という仏で、欲がない、お腹が減ってお乳が欲しいと泣くけれど、お母さんのお乳を飲んだらもうごきげんさんです。
 老いるにつれて仏性という徳があらわれて、他を思いやる心が大きくなればよいのですが、不思議と年を重ねるごとにどん欲になるのはなぜでしょう。

 まじめにこつこつと働いてきたから財産もできた、そして人さまから信頼されているように自分では思う。けれども価値のある人生を生きているのかどうか、よくわかりません。人間の欲張りな物差しでは測れない、仏さまの物差しで測ったら、ずいぶんとちがっているかもしれません。

 年を重ねて運良く還暦が迎えられたら、人生80年の長寿の時代ではそれは折り返し点です。60年も人生を生きてきたら酸も甘いもよくわかる、世間の風の冷たさも、人情の温かさも、艱難辛苦を乗り越えてくればこそわかることも多い。そうした経験を生かして生きていくことで、若きは美しく、老いたるは、なお美しく生きられそうです。


病・・・ 間を楽しむ

 楽しいという字は薬の字から草かんむりをとったものです。この草かんむりが薬を意味するそうです。薬から離れられるようになった、すなわち健康になったから草かんむりがとれて楽しいという字を書くそうです。また生身の人間は、善い生き方もすれば悪い生き方もしてしまいます。人間の心には悪い根性が潜んでいますから、根性悪を直す薬も必要です。

 元気な時には自分の体のことをあまり気遣いません。ところが病に倒れてはじめて生きる意味を知ることがあります。体の不調で健康のありがたさを知り、もっと生き続けたいという願望がわいてきます。病にしてはじめて、人は今を生きることの大切さをしみじみと思うのかもしれません。

 人間を、もとは「じんかん」人の間と読んだそうです。人間を知ることは人と人の間(あいだ)がわかることです。間(あいだ)とは間(ま)のことです。
 病とは心も体も病むことです。生活のリズムにも間(ま)があり、心身ともに和(なご)み、穏やかさという間を保っておれば健康でいられるのでしょう。
 病で苦しんでいる時が人生の間だと思って、病床で医者や看護師の目を盗んで日々坐禅をしていたら、自己治癒力がはたらいたのか、そのうち病を克服されました。これは平成20年1月5日老衰のため106歳の天寿を全うされた永平寺の宮崎奕保禅師の69歳の時の闘病体験のお話です。

 階段の踊り場、床の間なども無駄なようで無駄な空間でない、庭の飛び石も間(ま)があきすぎると歩きにくい、ちょうどよい間隔が心地よい。
 人と人の関係の間(ま)も、生活のリズムの間も、そういう間がわかるようになると楽しいでしょう。幸せだとか幸せでないとか考えている時は、欲の物差しがはたらいているから幸せでない。何も考えていない間が持てる時が一番幸せなのかもしれません。

死・・・ 今、命あるはありがたし

 自分の力でこの世に生まれてきたのでなく、さまざまな因縁により生まれてきた。だから自分自身で生きているように思っていても、ほんとうは生かされているのでしょう。自分で息しているといっても、たいていは自分で意識せずに呼吸しています。生かされているから、息するという自覚がともなわないのでしょう。生かされている身の上ですから、自然なこととして生あれば死あり、やがて死をむかえることになります。

 中国では人生の幸せを福・禄・壽であらわすそうです。福は子々孫々に栄えること、禄はお金に困らないこと、壽は長生きすることです。
 中国に仏教が伝わると、阿弥陀仏を無限の寿命をもつ仏としてまつりました。無量光(アミターバ)を無限に続く生命力とイメージして、不老長寿を阿弥陀仏に願いました。福も禄も幸せの条件ですが、今も昔も、究極の願いは壽、すなわち長生きすることです。

 世の中のことを世間といいますが、娑婆(しゃば)ともいいます。この娑婆という言葉は仏教とともに西から伝わり、忍土と訳されました。人はこの世では生老病死の苦しみから逃れることはできません、つらく苦しいことにも堪え忍ばねばならないのです。それで、この世、俗世間のことを娑婆というようになったそうです。
 人はだれもが求められて、この娑婆に生まれてきたのですから、どんなにつらく苦しくても、すべっても、ころんでも、歯をくいしばって、堪え忍んで生きぬかねばならない、これが娑婆の生き方です。

 人の究極の願いは壽すなわち長生きですから、生、老、病、死はすべて苦です。けれども生老病死のいずれもが、命の自然な姿であると受けとめれば、苦ではない。
 流水腐らずという言葉がありますが、生き生きとして今を生きることをいうのでしょう。やがて死するものの、今、命あるはありがたしです。

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