2009年10月1日  第129話
           行 願        

  己れ未だ渡(わた)らざる前に、一切衆生を渡さんと発願し営むなり 
          
                            道元禅師

友愛の精神

 アメリカ発の世界経済危機の大波は表面上はおさまったかのようですが、我が国では雇用や生活不安を感じている人々は非常に多く、企業家は先行きに明るい兆しをまだ見いだせていないようです。テロや紛争は世界各地に起こり、地球温暖化による気候変動は将来どうなるのか、不安が大きくなるばかりです。

 日本の政治に、これまでと少しちがった風が吹くのでしょうか。長く続いた自民党を中心とする政治から、民主党を中心とする政権に国政がゆだねられることになりました。はたして何がどのように変わっていくのでしょうか、国民が等しく投じた一票に託する思いはさまざまです。

 新しく総理になられた鳩山由紀夫さんは「友愛の精神」をご自分の政治理念とされ、「友愛の精神」をもって治世にあたりたいとのべておられます。先月ニューヨークで開かれた国際的な各種会議においても、この精神のもとに演説されました。
 「うれしいことも悲しいことも、共に分かち合うのが友愛の精神です」と鳩山由紀夫さんはことあるごとに熱心に、「友愛」の精神を語られます。

 「友愛の精神」の友愛とは、友人に対する親愛の情、親愛とは親しみ愛することをいうのでしょう。人間は利己的であるから、人間社会では親愛とか友愛の意識のはたらきがなければ対立が生じます。それで鳩山由紀夫さんは、ことあるごとに「友愛」の精神を大切にしましょうと呼びかけておられます。

利己的でありながらも利他的である

 人間は利己的なものですが、これは人間だけでなく、生きものは本来、みんな利己的です。自己の生命を維持し、子孫を残すことにおいて、生きものは利己的になるのです。ところが自然界全体に目を向けますと、さまざまな生きものは互いに命のつながりがあり、互いの命の支えあいで生かされているようです。したがって、すべての生きものは、利己的でありながらも利他的である、これが自然界の姿です。

 自然界では、食物連鎖により、生命がダイナミックに循環をしています。あらゆる生命は独自に生きているようですが、どこかで他の命とつながっています。自然界では、個々の命が個々に生きて、そして、互いの命を支えています。自然界は利己的な生物ばかりなのに、なぜか利他的なつながりあるという、不思議な世界です。

 個々の生物について、その姿を見ると弱肉強食に見えるかもしれないけれど、自然界全体では弱いとか強いとか、そういう序列はないようです。自然界においては、どの命も他の命にとって、かけがいのない存在だからです。ところが人間社会に目を転じると、そこには自然界には存在しないありさまが日常的に展開されています。人間だけの問題であればいいのですが、地球温暖化ということにおいては、あらゆる生命の生存をも脅かすことになります。

 鳩山由紀夫さんの「友愛の精神」が広く共感を得ようとするならば、民族、宗教、を越えて、普遍的なものでなければ説得力を持たないでしょう。地球温暖化の国際公約も政治的駆け引きの具になってしまうようでは、一過性の戯言にすぎないでしょう。氷山も、永久凍土も溶け出して、生物の生態系にも影響しはじめていますから、地球温暖化が進む速度を数秒でも遅らせ続けることができればいいのですが。

ものごとは「縁起」すなわち条件の調和による

 さて、鳩山由紀夫さんの「友愛の精神」ですが、人々に共感がえられれば、治世の一助となるでしょう。人は一人では生きられないことから、互いに支えあって人間社会はかたちずくられています。人情、すなわち、思いやり、愛情、なさけ、による結びつきは、人々の精神的な信頼のささえとなり、相互扶助の基本となるでしょう。

 ところが今日の世情では、何ごとにつけても、個の存在を声高に主張することが人間関係の基本であるかのような風潮があります。人間としての思いやり、愛情、なさけという人情がからむと、かえって人と人との関係では、不都合が生じるという理解さえ、されかねません。
 しかし現代人は孤独に悩み、不安を抱いている人が実に多いようです。それで、人情にふれることのなかった人が、体温の温かさが感じられる心のふれあいに出会った時、身震いするような郷愁を感じることがあるようです。

 ふと、ふりかえってみた時に、自分の周りには人情のふれあいがない、そう感じる人も多いでしょう。たとえば・・・悩み苦しんでいたとき、気持ちを楽にしてくれた人がいましたか。胸のつかえを話したとき、なぐさめてくれた人がいましたか。くじけそうになったとき、励ましてくれた人がいましたか。助けて欲しいそのとき、手をさしのべてくれた人がいましたか。うれしいとき、悲しいとき、いつも、そばにいてくれる、そんな人がいましたか。

 すべてのものごとは「縁起」すなわち条件の調和によっていると、お釈迦さまは「縁起」の道理を説かれています。すなわち、人も、生きとし生けるものもみな諸々の条件が具わったからこそはじめてこの世に生まれ、存在しています。そしてさまざまな条件に支えられているからこそ生きていけるのです。
 人の情け、あわれみ、いつくしみの心を人情といいますが、人間のみならず生きとし生けるものすべてをあわれみ、いつくしむ心をお釈迦さまは慈悲心といわれました。
慈悲心という潤滑油でこの世は満たされているから、生きとし生けるものはみな生きていけるのでしょう。


友愛は慈愛なり、慈悲心(仏心)の発露なり

 柿の実が熟する時期になりました。柿の実は剪定された枝になるものより、自然のままに老いた枝につく実のほうがなぜか甘い。人間も悩みや苦しみ、そして辛抱など、経験した数だけ、やさしくなれる、やさしさの心が成熟して甘くなる。心の琴線の響きも、年を重ねるごとに情もこまやかになり、味わい深いものになるでしょう。

 自分中心の利己的な生き方しかできない私たちですが、他の幸せを願う利他的な生き方にこそ本当の喜びがあることを理解したいものです。そのためには、利己的な自分に気づき、生まれながらに具わっているやさしさの心、すなわち慈悲心を常に呼び覚ましておくことです。
 日常の生き方として、心を鍛えて自分を変えていくとやさしさの心、慈悲心があらわれます。渋柿の一皮をむいて干し柿にすれば、やがて甘くなるのと同じです。慈悲心が発露して利他の行いが自然にできるようになれば、人生が楽しくなるでしょう。

 気持ちが落ち込んだとき、救われたことはありませんか。気分がすぐれないとき、心なごまされたことはありませんか。生きるのがつらくて、弱音を吐いたとき、励まされたことはありませんか。悲しくてとめどなく涙が流れたとき、元気ずけられたことはありませんか。絶望のどん底にあったとき、勇気と希望をあたえられたことはありませんか。

 人はみな利己的な生き方しかできないようでも、利他の行いができるやさしさの心、慈悲心を宿しています。利他の行いを通して、生きていてよかったと喜びあえることは、だれにでもできることです。そのために、一輪の花をめでる美しい心の目を開き、やさしさの心を、いつもよびさましておきましょう。命の輝きが感じあえる、あたたかき友愛の心をはぐくみましょう。楽しい人生とは、慈悲心に目覚めた生き方であり、一生、是修行です。


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