2009年11月1日  第130話
            無常      

             露命を無常の風にまかすることなかれ   修証義
          
                                


もの思いにふける秋

 この時期、街路樹が色づき、山々の錦秋の美しさに見とれていると、さーっと吹きぬける風に、目の前の木々がはらはらと木の葉を散らせていく。しみじみとした感傷に思わず誘い込まれていく、そんな気持ちになったことはありませんか。また菊の馥郁とした香りによって、穏やかな気持ちになる。秋の風景はさまざまな心の動きのようです。

 なにげないことですが、秋の日のこの時期に、もの思いにふけることがあるでしょう。それは過ぎし日のことであったり、ふと感じる自分の老いの寂しさであったりです。もの思いにふける秋は、未来への希望ということより、どちらかといえば、過去への回想が多いようです。秋になると、いつもこの時期に思い出すのがフランスの詩人、ヴェルレーヌの詩でしょうか。

秋の日の ビオロンの ためいきの
身にしみて ひたぶるに うら悲し
鐘の音に 胸ふたぎ
色かえて 涙ぐむ
過ぎし日の 思い出や
げに我は うらぶれて ここかしこ
さだめなく とび散らう 落ち葉かな
落ち葉かな
            ヴェルレーヌ作 上田 敏 訳 

 小春日和の暖かさを感じながら、熱く燃えた夏の日のことや、遠く過ぎ去った、ずっと昔の青春時代をふと思う人もあるでしょう。また北風の冷たさに思わず襟をよせ、身を震わせてしまう、そんな秋の日もあります。そして木枯らしが吹き始めると、厳しいこの冬の先行きに思いをめぐらすのもこの時期です。季節の移ろいに我が人生を重ね合わせて、物思いにふけるのも、たまにはいいのかもしれません。

無常の風は時を選ばず

 
若い人には、老いることも、自分の命の尽きることも、いまだ実感しないでしょう。今が楽しければよいのであって、若い時には人生の終わりなどと、思うこともないでしょう。さすがに還暦を迎える頃になると老いを感じ始め、この先、何年生きられるだろうか、などと、少しは思い始めます。それが古希ともなると人生の老いをさらに感じて、我が人生の過去をふり返ることも多くなるでしょう。

 一分、一秒、時の流れは老いも若きもみな同じスピードなのに、老いとともに時の過ぎゆくのが早く感じるようになるのは、なぜでしょうか。若くても年をとっていても、みな同じように時は流れていきます。そして、昨日の私より、今日の私は確実に老いているのです。年をとった分だけ過ぎし日の数が多いから、過去をふり返ると、光陰は矢のように進んできたように感じるのでしょう。

 「生者必滅、会者定離
(えしゃじょうり)」とは、生ある者はいつか必ず死んで滅び、出会う者はいつかは必ず別れる、この世は無常であるということです。「無常の風は時を選ばず」、無常の風とは人の死をいう、吹く風が花を散らすように、有為転変の常ならない人生にとって、死はいつやってくるかわからない。世の中はどんどん変化をしていく、無常とは変わりつづけるという意味です。

 なぜ老いは寂しいのでしょうか、それはやがて死がおとずれるだろうことの前提だと思うからでしょう。そして死は恐ろしいと感じます、なぜ恐ろしいのでしょうか。それは自己の存在がなくなると思うからです。
それでも、死が恐ろしいのは、今に未練があるからでしょう。もっと今を生きつづけたい、もっと楽しくおもしろく生きたい、そういう思いがあるからです。

無常という流れの中に

 せっかく生きている今ですから、もっと意義のある人生、よりよい人生にしていけばいいのでしょうが、人はあんがいのんびりして、いい加減な生き方をしています。今がよければと、貴重な時の流れを浪費しているようです。一分一秒は決して返ってこない、時間の戻しはきかないのです。それでも人はのんびりとしたものです。

 今は長寿の時代ですから、余命も長くなった。20歳でしたら、60〜70年、60歳では20〜30年ということです。生れてきて、生きてきて、その先にいつか死がおとずれる。今から何十年という線が引かれていて、その最終点に死があると考えてしまいがちですが、そうではなく、死という最終点は実は定まっていないのです。ずっと先のことではなく、明日かもしれないのです。そうすると、のんびりとかまえていられないはずです。

 昔知り合った人がこんなことを言っておられました。若い頃のことですが、生きて行くのがいやになった、倦怠感が全身にまわって、何もする気がしない、悶々と過ごしていたそうです。ある時、これではいけないと、一年12枚あるカレンダーをばらばらにして、それを全部壁に貼り付けて、一日終わるごとに×印で消していったそうなんです。そしたら10日ほどしたら、はたと気がついた。時間は過ぎていく、人生は残り少なくなっていく、これではいけないと思い始め、気合いを入れて生き方を変えていったそうです。そして努力の末に企業を興し、励んでこられたそうです。

 生きている状態は、死ではなく、死ぬときは生ではない。我が身のことを極端にいえば、生か死か、ただそれだけのことです。そして、この世には変わらないものは何一つとしてない、万物はみな移り変わっていく。一刻一秒同じ姿を止めるものはない、無常という流れの中にすべてのものが存在しています。その無常という流れを理解して、無常の中に生きる楽しみを見いだすことができればいいのですが。

今、生きている

 今、という時に生きています。けれど、それは一瞬のことで、そう思った時、すでに過去になっています。まさに、今とは、まばたき、瞬時です。明日のことだと思っていることが、もうその時になれば今です。未来はすぐに今になり、そして過去になってしまいます。過去の体験にこだわって、今の自分をとらまえていても、時はどんどん移り変わっていきます。

 すべてのものは、同じ姿を止めていないのです。昨日の私も、今日の私も、そして明日の私も、同じ私だと思っているのは自分の思い込みであって、自分という身体を構成している50兆個とも60兆個ともいわれている細胞は、絶え間なく死んだり生まれたりしています。すなわち昨日の私、今日の私も、明日の私も、みんな異なる私です。今、一瞬、私自身は変わりつづけているのです。

 木々が色づき、そして風にせきたてられるように葉を落としていく。それはあたかも老いて、木々の葉が落ちて、死に絶えていくように見えるかもしれないけれど、春を、そして夏を、その先に向かえるために葉を落としているのです。落ちた葉はやがて有機肥料として、また新しい命を生み出します。

 深まり行く秋の日に、人は自分の人生を重ねて、さまざまに思いをめぐらすでしょう。過去にこだわることなく、いつも未来志向で今を生きる。今を生きることが過去を生きることであり、未来を生きることです。
 はらはらと風に舞い散っていく木々の葉に命の儚さを感じ、美しい紅葉が秋の日に照る、この一瞬の命の輝きに心ときめかせましょう。時の流れの中にあって静寂を感じ、今、生きていることを喜ぶことができれば、幸せです。

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