もし人 善きことをなさば これを また また なすべし
善きことをなすに 楽しみをもつべし
善根を積むは 幸いなればなり 法句経
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悪のなかに 楽しみをもつなかれ
これぐらいはだれでもしているからとか、見つからなければいいだろうと、ちょっとスリルを感じて万引きをしてしまう。これは青少年の犯罪に多いことですが、コンビニや書店での盗みや、薬物乱用など、出来心で犯行におよんでいることもあるようです。人はどうして悪事をはたらいてしまうのでしょうか、しかも、悪いことと知りながらです、なぜでしょうか。
その時は、冷静さを失って、自分を見失い、善し悪しの見分けがつかないままに、悪行に走ってしまったなどと、自分の悪事を弁解する人がいますが、悪いことをしていて、それが間違っていると気がつかない、などということはありえません。ただまれに無知ゆえに、善悪の理解ができていないこともあるかもしれません。
生活が苦しいから、お金がないからと、ついやってしまう大人の万引きと、ゲーム感覚でする青少年の万引きとは、動機にちがいがあるでしょう。怨みや憎しみによる特定の人に害を与える犯罪と、鬱憤うっぷんのはけ口のような、だれでもいいからと見ず知らずの人に危害を加えるのとは、背景が異なります。自分の弱さから薬物依存に陥るとか、男性のゆがんだ精神的行動として、女性や子供に対する犯罪、遊びの金欲しさの悪事、悪徳商法、凶悪犯罪等々、犯罪の動機や種類はさまざまです。
いずれにしても悪いことと知りながらも、人は悪事をはたらいてしまうのです。何が人を悪事に向けてしまうのでしょうか。でも、ほとんどの人は悪いことと認識したならば悪事をはたらくことをしないものです。それでも悪いことをしてしまう人と、悪いことをしない人とは何がどうちがうのでしょうか。
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悪しきことにむかいては 心をまもるべし
ちょっとぐらいはいいだろうと、軽い気持ちで悪いことをしていると、しだいに悪の道にのめり込んでしまいます。悪いことと認識しながらも、もう悪に染まってしまったのだから、もう引き返せないと、さらに悪を重ね、悔い改めることがなく、前後の判断もせず、気の向くままに成り行きのままに、悪行を重ねる人がいます。
幼き子の行動ならば善悪を問われないけれど、青少年になると善悪の認識ができる能力があるとみなされます。15歳とか18歳、成人した大人、年齢によって悪事は法的に処置されます。しかし犯罪をおかす人の素地は幼き頃より培つちかわれてきたのです。
したがって物心がつくまでの幼き頃に、親は子に善悪の見極めをすることを教え始めるべきです。幼子の時に善いことであるか、悪しきことであるかを教えなければ、善し悪しの認識のもとに行動できる人に育っていかない。親が子に善悪の認識が大事であることを教えないと、その子は不幸になっていく。また親の悪行を見て育った子が悪事をはたらくと、二代にわたって繰り返されることになり、それこそ不幸なことです。
また日本人の文化である「恥」ということについて、躾しつけとして親が子に教えなくなったことも、現代人の善悪についてのあやふやな認識と関係がありそうです。
悪事の前歴のあるものが、社会生活をして更正していくのには、きびしい試練がともなうでしょう。たとえ悪事をはたらいてしまっても、自分が誤った生き方をしてきたことを冷静に認めて反省し、これからの生き方を善きものにしていこうと、強い覚悟ができてきた人は再び悪しき道を行くことはない。懺悔し更正するとは、自分自身が悪しきことのできない人間、善きことを進んで行える人間になることです。
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悪しきを去り 行ずること寂静しずかにして 垢けがれをすてる
2500年も前の話ですが、お釈迦様は12月8日に、この世の真実実体を、ありのままにお悟りになりました。この世のすべてを、真理すなわち仏と悟られた。天地万物、山川草木一切のものがみな仏(真理)であると、私たちも、生きとし生けるものも、みな全てが悟りの世界に生きている仏であると、そのように悟られました。お釈迦様はその真理を法として私たちに説いてくださったのです。
人は悟りの世界に仏として生れ、悟りの世界に生活しているのですが、そのことに気づいていないから、自分の心の動きとして、邪よこしまな心や怠なまけ心が生じてしまうと、わがまま勝手な自分が一人歩きして、自分で苦しみをつくってしまったり、悪行に走ってしまうようです。仏であるはずの自分が悪しき凡夫に変わってしまうのです、そういう弱い体質を持っているのが人間です。
生きとし生けるもの全てが悟りの世界に生きている仏であるから、みな善き生き方をしているのに、人間だけが悪行をはたらいてしまうから困ったものです。それで常に自分自身を検証して、怠け心をおこしたり、邪な行動やわがまま勝手なふるまいをせぬように自問自答し、日々の生き方として自らを制御しなければならないのです。
悟りの世界に生まれ、今、生きている、私たちはみな仏さまですが、そのことに気づき、その意識を常に持ちあわせて、仏さまである自分に恥じない生き方をすることが、仏教徒の生き方です。
人は仏の素地をもって生まれてきたから、本来人は悪しきことをしないものです。だから悪行をしょうとすると、悪いことをしょうとしている自分に気づき、思い止まるのです。また悪しきことを見極める力が人にはそなわっており、悪しき道に入りても、悔い改めて善良な生き方に立ち返る力が人にはあるはずです。
たとえ悪事によって幸せを得ようとしても、けっして幸せになれない、なぜならば人には仏心があるからです。かならず罪の意識にさいなまれて、あがき苦しみ続けることになり、けっきょくは、幸せになれないのです。
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善根を積むは 幸いなればなり
人は生まれながらに仏である、すなわち、悪しきことのできない人、善きことしかできない人に生まれてきたことになっています。けれども自分自身が仏であることに気づいていません。のみならず、仏である自分にさからって甘い魅惑や魅力に誘われて、ついつい悪しき道に入ってしまう弱い心も人は持ちあわせています。
しっかりとした信念を持っていないと、ややもすれば人は自分勝手なわがままなふるまいをして、自分自身が苦しんでしまう原因をつくってしまったり、悪しき道に流れてしまいます。
それで、そういう心のブレをたえず自分で軌道修正していかねばなりません、これが懺悔です。そして、自分の心を清めること、これが日々の生活という修行です。善き生き方を心がけよう、善き生き方に喜びを見いだそう、この思いが大切です。
とかく悪しき道に流れてしまう弱い心の自分であっても、心がけしだいで変われます。日々懺悔して、自分の心を清めようとつとめればよい、そういう生き方の中に、悪しきことをしようとしてもできない自分、善きことを進んでやれる自分がしだいに培われていきます。つまり仏さんらしい人間になっていくのです。
お釈迦様は12月8日にお悟りになられた、人は生まれながらに仏であるが、それは日々修行を怠ることなきによる、と、教えられました。
自分自身を変えることによって、自分のことはさておいても他を思いやり、他を幸せにという願いが、自分自身にそなわるようになります。世のため人のためにつくせる人間であることに喜びと生き甲斐を感じることができるようになれば、それほど幸せなことはない。
命はいつ尽きるかわからない儚いものですから、よりよき生き方を求め続けることに喜びをみいだしたいものです。心を清めるとは、仏心という心の鏡を常にくもらないようにしておくことでしょう。
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