是の故に当に知るべし、世は皆無常なり、会うものは必ず離るることあり。憂悩を懐くことなかれ、世相是の如し。当に勤めて精進して早く解脱を求め、智慧の明を以て、諸々の痴暗を滅すべし。世は実に危脆なり、牢強なる者なし。我れ今滅を得ること悪病を除くが如し。此れは是れ応に捨つべき罪悪のものなり。仮に名付けて身と為す。 (仏遺教経) |
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「生」「老」「病」「死」は命の姿
近年は病院でお産しますが、30〜40年前までは、妊婦が産気ずけば近くの産婆(助産婦)さんが駆けつけてくださって、家でお産をしました。したがって人の誕生、「生」は生活の中にあたのです。そして子供は三世代同居家庭や地域を生活の場として育てられました。
急速度に長寿社会になりました、食生活や住環境、医療がよくなったからです。ところが三世代が同居する家は少数になり、また老人介護施設を利用することが多くなるにつれて、日常生活で「老」の姿を子供が身近に感じる機会が少なくなりました。
医療や介護のおかげで、ほとんどの人は「病」んでも健康を取り戻せるようになりました。医療と介護が充実してきたので長生きして、老衰でも病院で最後の時をむかえることが多くなりました。けれども、ほんの20〜30年前までは、家族に看取られて家で「死」をむかえるのが自然なことでした。親や祖父母が老いて、そして命尽きる姿を、またご近所でお亡くなりになる人のお姿を、日常生活で目の当たりにしました。
最近の子供たちは、成長の過程で日常的に「生」「老」「病」「死」の命の姿を目にすることなく大人になっていきます。命のぬくもりを実感しないと「生」「老」「病」「死」についての認識も変わらざるをえないでしょう。
昨今の少子化や、離婚率の増加、自殺や孤独死、さらには人の情ということについて、やさしさやいたわりの気持ちをなくしてしまったことから起こる、いじめや犯罪、さらには、ひきこもり、心の病、葬儀や先祖祭祀についての考え方の変化、これらは「生」「老」「病」「死」にたいする認識の変化と無関係ではなさそうです。
「生」「老」「病」「死」とは命の姿であり、命のぬくもりそのものです。若い人たちにとって、日常的に身近に「生」「老」「病」「死」と向き合うことがないので、その実感がないのかもしれません。しかし介護や医学療法が進み、経済的に豊かで、戦争の危機がない平和な社会に住んでいても、「生」「老」「病」「死」は人間の基本的な悩みであり苦しみです。
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老と病は人間の成熟過程、死は成熟の終着点
一般的に高齢者とは65歳以上を指すそうですが、現代人は80歳を越えてもなお生き続けるようになりました。老人力という言葉がありますが、自分なりに老いの価値をみつけて、老いを楽しむ、どれくらい多くの人が老いの喜びを感受しているでしょうか。生きる希望を失い孤独に悩み失望している人も多いようですが、老人人口は確実に増え続けています。
長寿社会では老人の二人に一人が癌にかかり、その三人に一人が癌で死ぬそうです。また老いるまでに成人病で命を落としてしまう人も多いのです。「病」になって、人生のひと休みの時間を授かったなどと、病を受け入れて病と向き合い、治癒していこうとするおだやかな気持ちには、老いてもなお、なかなかなれないものです。
欧米人の生死観は「生・死」でとらえるそうですが、これに対して、日本人は「生老病死」としてとらえています。老と病は人間の成熟過程で、死はその成熟のはてにやってくると考えています。だから老いの生き方や、臨終の時をどのように迎えるかは、重大な関心事です。成熟過程である老いをどう生きるかは、高齢化社会での個々人の課題です。老衰でも病院で死ぬことが多くなったために、介護や看取りが問題です。医療と介護が人の命を支える時代です、しかも家族でない他人の世話になるのです。
現代人は、老いや死を自然なものとして受けとめようとしないから、老いを嫌い、死をけがれたものと受けとめてしまいます。それで老いをむかえたものは、老いの生き方にとまどい、病は死に至る恐怖と感じるようです。老と病は人間の成熟過程で、死はその成熟のはてにやってくるなどという考え方は受け入れられないようです。
日本人の民族的生死観、霊魂観からすると、しだいに成熟して死をむかえた人間は、死を成熟の終着として、そして新たに祖霊となる出発とします。すなわち死は成熟の終着点であり、子々孫々に敬愛される先祖霊となる出発点でもあるのです。
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人はしょせん独りぼっち、ただ一人黄泉に赴くのみなり
人はしょせん独りぼっちです。生まれた時はお母さんといっしょですが、成長とともに一人の人間として生きていかねばなりません。そして死ぬ時も独りぼっちです、ただ一人黄泉に赴くのみです。死にゆくときには、お金も名声も、何一つたよりにならないのです。愛する人とも永遠の別れですから、死別ほど悲しいものはないでしょう。
人は冥土への旅立ちにおいて、どんなに地位や名誉があろうとも捨て去らねばなりません。財産があっても、何一つあの世への旅立ちには不要ですから、この世に残していかなければなりません。ただ一つあの世へついていくものがあるとすれば、それは生きてる間に何をしたか、どういう生き方をしたか、そういう行為を業といいますが、この業だけは死んでからもその人について離れないのです。
長寿の時代であるといえども、だれもが長寿であるという保障はありません。事故や地震などの災難に遭遇して死んでしまうことも、老いるまでに脳梗塞や脳卒中、心筋梗塞、癌になり、病床で苦しみの果てに命尽きることも覚悟しなければいけません。
命はいつはてるかもわかりません、そして、死んでからのことなどわからない、あの世とはこういうところだと語り聞かせてくれるものなどいません。だから、お釈迦さまは死後のことを聞かれてもお答えにならなかった。そして、今をよりよく生きることだと教えられました。よりよく生きるとは、善き業を身につけ、悪しき業を身につけないこと、人は一生が修行であると教えられました。
死にゆくときは、ただ一人です。お金やプライドなどにこだわっていても、何一つたよりになりません。いつまでも心身ともにはつらつとして、命の輝きを失わないためにも、あの世へも身につけていける善根を積み続けたいものです。
この世に生まれてきたことを喜び、懸命に生きて、自分には善き業がいっぱい身についているだろうか?常に我が身をふり返って、今の自分が褒められたらいいのですが・・・
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人の生を うくるはかたく やがて死すべきものの 今、生命あるはありがたし
正法を 耳にするはかたく 諸仏の 世に出ずるも ありがたし 法句経
「人の生をうくるはかたく」とお釈迦さまがいわれましたが、この世に生まれてきたことが、何よりもすばらしいことでしょう。でも、だれもが心底からそのように思っているでしょうか、そうであれば命をもっと大切にして、自分の生き方も変わるでしょう。生きている今を喜び、向上しようという思いがもっと大きくなるでしょう。「やがて死すべきものの、今、生命あるはありがたし」、老いて、病にもなり、いつ命がはてるかわかりません、世はみな無常です。
即心是仏といいますが、即心即仏、是心是仏、私たちに本来そなわっている、やさしく、おおらかで、そして清らかな心が仏心です。その仏心に目覚めることが、「生」「老」「病」「死」の命の成熟した生き方です。命はいつはてるかわかりませんが、臨終という時には意識はないでしょう。だから、いつはててもよろしいという、そういう余裕をもって生きていけたら、それはもう「生」「老」「病」「死」の命が成熟し、成仏したということです。
NHKテレビの龍馬伝の坂本龍馬や司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に登場する人々の時代は人生50年であったけれど、今は人生80年の長寿の時代です。誕生から成人するまでの成長過程の20年間を差し引くと、二倍の大人年齢の期間を生きることになりました。「老」と「病」に向き合う時間がそれだけ長くなったのです。したがって「老」と「病」にどう向き合って生きるかによって、人生の喜びと、悲しみの味わいかたが、個々人によって大きくちがったものとなるでしょう。
「仏遺教経」という教典は、お釈迦さまが80年のご生涯を終えようとされるまさにその時に、弟子達に最後の説法をされた、お釈迦様の45年にわたる布教の末の遺言ともいうべき教えです。2,500年の時の流れを越えて今もなお人々の心に響くのはなぜでしょう。それは「生」「老」「病」「死」の、ぬくもりのある命の生き方の教えだからです。
死の間際まで穏やかで心安らぎ、あたたかで、明るく、楽しくありたいものです。この世に生まれてきたことを喜び、感謝の気持ちをもって、静かに自分の死を受け入れ、悠久の旅に出られるならば、それは幸せな人でしょう。
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