2010年 3月  第134話
                     
    
  人もし生くること 百年ならんとも 怠りにふけり 励み少なければ
  かたき精進に ふるいたつものの 一日生きるにも およばざるなり
                         (お釈迦さまの言葉・・・法句経)

一本道

 バンクーバーオリンピックではさまざまなドラマがありました、とりわけメダリストたちの活躍はやはり話題になりました。男子フィギュアスケートの高橋大輔選手は銅メダルを獲得しました。怪我や艱難辛苦を乗り越えて、男子フィギュアスケートでは日本人初のメダルです。女子フィギュアスケートでも銀メダリストの浅田真央選手はじめ日本の選手たちの活躍はすばらしかった。風のように滑り、優雅に飛び回る、美しい氷上の舞姫たちの妙技に人々は魅了されました。

 開催日直後の14日、女子モーグル決勝が行われ、上村愛子選手が4位入賞しました。
「ちょっとくやしい」と、インタビューで目に涙をにじませながらも、これまで支えてきてくれた人たちへの感謝を語りました。メダルがとれなかったことについて、「なぜ一段一段なんでしょう、でも自分の最高点がオリンピックという舞台で出せたことがうれしい」そう語っていました。悔し涙の中にも苦節12年におよぶ自分なりの努力の軌跡に満足そうな笑顔でした。

 冬のオリンピックでは個人競技が多いけれど、カーリングは団体競技です。さまざまな駆け引きがともなうことから、氷上のチェスともいわれていますが、チーム青森の奮闘ぶりも一味ちがったオリンピック競技の楽しみでした。国母選手の服装問題でスノーボードへの関心も、かつてなく高まりました。さまざまな感動の余韻を残して、バンクーバーオリンピックの17日間にわたる熱き戦いが終わりました。

 高橋大輔選手のフリーでの演技曲目は「道」でした。どのスポーツも、一つの目標に向かって自分をレベルアップしていく、ひとすじの道です。それは自分との孤独な、そして、未知の強豪との熾烈な戦いです。どこまで自分のレベルを上げることができるか、体力的限界を感じながらもひたすら上をめざす、たゆまぬ修練と挑戦の道です。今なにをなすべきかの目標を見失うことなく、一つの道をいちずに、そしてまた、レベルを上げた新たな目標に向かって突き進んでいく、精神的、肉体的限界を感じても、簡単には終われない一本道です。

であい道


 オリンピック選手にかぎらず、さまざまなスポーツのトップクラスの人たちは、それぞれのスポーツをこころざす人々の何千何万人の中から勝ち上がってきたほんの一部にすぎません。一流の選手が育っていく過程では、もともとは、今はまだ原石であるが、鍛えて磨き上げれば宝石になるだろうという、有能な才能をもつ選手に成長するであろうことの将来性を見抜いた人があったはずです。女子団体スピードスケートの銀メダリストたちを支えたのは富山県にある従業員40名の中小企業だそうです。選手たちはさまざまな出会いによって、精神的な支えと、金銭的な支援のもとに、そして、よき指導者にめぐまれて修練を重ねて技をみがいていくのです。

 オリンピックという世界中が注目する大舞台では、超一流に鍛え上げた選手であっても、日頃の実力をなかなか発揮できないものです。でも、またオリンピックという大舞台だからこそ、実力以上の新記録がうまれたりもします。どのような結果で終わったとしても、選手のそれぞれが熱き挑戦をしたことは、人生における貴重な経験です。またその選手たちの競技を見つめる全世界の人々にも、さまざまな感動をあたえ、多くの青少年には未来への夢と希望をあたえたことでしょう。

 その道といいますが、スポーツにかぎらず、職業や技術、学問、芸能など、あらゆる方面での専門分野においては、卓越した能力を有し、技術の向上をめざし、その道をきわめることを目的とします。その道に入り、修練し、一定の成果や成績を達成し、さらに上をめざして道をきわめることは、どの道にも通じることです。しかし、向き不向きもあれば、チャンスにめぐまれるか否かということもあります。

 柔道や剣道、相撲道など、「道」といいますが、スキーやスケートでもスポーツに「道」という表現をもって日本人は人格形成を合わせてもとめようとします。元横綱朝青龍は相撲は勝つことのみであるとして、国技である相撲道の精神と相性が合わなかったようです。華道、茶道、書道など、習い事には「道」がつきます。 「一芸は道に通じる」 何ごとによらずひとつの技や芸を修めてその道をきわめるということは、人間の生きる道をきわめるのに通じます。「学問に王の道なし」 という言葉がありますが、どの分野でも、楽な道、近道はないということで、心構えや努力、辛抱、工夫が必要です。

わかれ道

 このように何ごとにつけても日本人は「道」という言葉をよく使います。「道」をあらわすことわざも多く、「 千里の道も一歩から」 物事は確実に一歩ずつ進むことによって達成できる、基本を忘れて先を急いでも、いずれつまずきます。でもつまずきや思わぬことに遭遇するのは当たり前、 一つや二つの失敗を恐れないことです。人生にはいろんなことが起こります、どう乗り越えてどう対応すれば万事うまくいくかです。「もどり道は迷わず」 二度めのことは失敗しないということです。失敗は軽いウオーミングアツプだと思えばよいのでしょうが、 どの道でも一流になるためには苦労がいります。

 「老いたる馬は道を忘れず」 ということです、老馬はいろいろな道を通った経験をもっており、山道などで道に迷った時には、老馬を先頭に立てれば、必ず道に出る。人生経験の豊かな老人は物事の判断を誤らないという教えがあるとおり、どの道でも指導してくださるよき人にめぐりあえればよろしいのですが、人間修行がまだできてない若者には器用な世渡りはできません。 老練といいますが、何ごとにつけても間がうまくとれて、世の中のおもしろさがわかるようになるには、経験を積んでうまくなることです。

 「人の行く裏に道あり花の山」 とは裏読み格言ですが、人のやらない事をやる、人の反対をやる、人の嫌がる事をやる、人の喜ぶ事はしない、人の言う事は聞かない。人並みのことをしておっては激流を乗り越えていけないということです。とはいっても トヨタは独自のカンバン方式と品質管理を基本とした経営道でアメリカの三大自動車メーカーをしのぐビッグ企業になったけれど、大規模なリコール問題はトヨタの経営道のどこかに綻びがあったのでしょう。
 「旅は道連れ世は情け」 だれだって自分一人では生きられないから、友や知人を多く持つことです。そして世の中を生きていくためには、互いを思いやる気持ちがたいせつです。

 「日暮れて道遠し」 とは、やるべきこと、やりたいことはたくさんあるけれど、それをする時間が残り少ないことをさします。時は矢のように過ぎていきますが、「夜道に日は暮れぬ」どうせ遅くなったのだから、こうなったら、もはや慌てることはない、間を保ち慎重にということで、時と場合によっては大切なことです。「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」 論語の有名な一節です。朝に道を聞くことができたら、夕に死んでも心残りはない、常にこのことを肝に銘じておくべきです。

向上の道


 スキージャンプの金メダリストであるスイスのシモン・アマン選手は、体が小さいこともあって、気象条件など、どんなゲレンデのコンディションにも、即座に適合するバランス感覚を養う訓練を重ねてきたそうです。人生を道にたとえると、 若い人は前途洋々、可能性に満ちています。だから萎縮したり臆病にならずに、キャパシティー、すなわち受け入れる容量を多くして、何ごとにも対応できる能力を身につけておくことです。

 競技とか試合とかは、さあこれからという開始の合図があって臨むのですが、世の中は、ものごとの始まり、終わりというものが定まっていないことの方が多いから、その時、その場に応じて対処しなければなりません。たとえ時間の余裕があって、前後のことや、善悪や将来予測をじっくりと検討することができたとしても、世の中はたえず変化しているので、今をどう生きるか、待ったなしのことばかりです。さまざまなことはやり直せるけれど、もう一度のない、やり直しのできないのが一度きりの人生です。

 一人一人の人生には終わりがあるけれど、「道」には終わりがありません。なぜならば一人の人生の道は終わるけれど、「道」はその人の人生を越えて続きます。伝統の技や科学技術、農業や機械加工、商いやサービスなど、後輩や後継の者が受け継ぎ、新たなる挑戦を重ねていくからです。おやじの生き方も、おふくろの味も、子や孫が受け継いでほしいものです。オリンピックの舞台でも後輩が先輩を追い越し、新たな記録がうまれて、どんどん記録は書きかえられていきます。

 昨年より今年、昨日より今日、一歩でも向上することです。自分自身の人格の向上、人間としての成熟をめざして、私たちは終わりなき向上の道を一生かけて歩まねばなりません。
「人もし生くること百年ならんとも、怠りにふけり励み少なければ、かたき精進にふるいたつものの、一日生きるにもおよばざるなり」と、お釈迦さまはさとされました。この言葉を、二度とない人生ですから、今、この一日をよりよく生きる誓いとしたいものです。

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