2010年 4月  第135話
          同事 
    
 同事というは不違なり、自にも不違なり、佗にも不違なり。 たとえば人間の如来は人間に同ぜるがごとし、佗をして自に同ぜしめてのちに、自をして佗に同ぜしむる道理あるべし、自佗は時に随うて無窮なり、海の水を辞せざるは同事なり、是故に能く水聚りて海となるなり。修証義


同事というは不違なり

 どんな生きものも、親から命を受け継ぎ、子孫を生み育てます。そして、それぞれが、さまざまな生態系のもとに存在しています。しかし、どの生きものも他の生きものの存在なしには、生まれてくることも、生きていくこともできません。

 人は、父と母のもとに生まれてきました。父と母の出会いがあったから生まれてきました。人はだれでも諸々の条件がそなわったからこそ、はじめてこの世に生まれてくることができ、そして人はさまざまな条件に支えられているからこそ、この世で生きていけるのです。

 このことわりが認識できれば、おだやかな心で生きていけるのですが、人はどうしても自己中心にしかものごとをとらえようとしません。人はとかく、なにごとにつけても自他を区別することで、ものごとを認識し、行動します。そのために争い憎しみあい、自らも悩み苦しんでしまいます。

 不違とは、たがわぬ・そむかぬという意味ですから、同事といえば、それは不違なりで、自他の区別も差別も立てないということです。ところが、人は自他を区別し差別し、自分が大切ですから、どうしても自己中心にものごとをとらえ、自己中心に行動してしまいます。


すべてのものは、どこかでつながっています


 この世界では、すべてのものが個々に存在しているように見えるけれど、すべてのものはどこかで何らかのかたちでつながっています。人とどこかで、社会とどこかで、自然とどこかでつながっています。だから、どこまでが自分で、どこからが他なのか、ほんとうのところはよくわからない、本来は自他の区別がなく、自他一如の世界なのかもしれません。

 世の中の道理というか、自然の有り様とは、自己中心的に生きようとしても、生きていけないということを、人はなんとなく理解しています。けれども、自己中心の生き方しかできないのが、私たちです。本来は自他一如であるはずだと、頭では理解できても、実際の生き方としては難しいことです。人権やプライバシーにかかわる問題が多いのも、このためでしょう。

 だれかが悩み苦しんでいるときに話し相手になってあげ、悩みを聞いてあげるとしても、人の心の奥深いところは、その人と同じ事実に立たない限りわからないものです。相手の思いを理解しようとすれば、全面的に相手の立場に自分を置かないと、すべてを理解することは不可能です。親が子供の思いを理解することも、社会のさまざまな出来事を理解しようとすることも同じです。

 お釈迦さまは法を説かれるときに、相手の立場に立ち、相手の能力に応じて説法されました。相手が仏法を聞く心準備がなされているかどうかをまず見定められて、相手の心をひきつけられて、そして法をお説きになったそうです。

他をして自に同ぜしめて後に、自をして他に同ぜしむる道理あるべし

 キサ・ゴータミは、夫を事故で失ってしまった。そしてまもなく、一粒種の息子も流行病で死なせてしまった。ゴータミは続く不幸に、その事実を認めることができず、深い悲しみと苦しみのなかでお釈迦さまに出会ったのです。

 お釈迦様は悲嘆のどん底にあるゴータミが、どのような悲しみを背負いながら、ここにたどり着いたのかをよく知っていました。お釈迦さまはその思いをすべて受けとめて 「おまえの望みをかなえてあげよう、ゴータミ、よく聞きなさい。今から街に出て死者を一人も送り出していない家から芥子粒をもらってくるのだ。そしたらその芥子粒をもって私がその子を蘇らせてあげよう」 と言われました。

 街に出たゴータミは言われたとおりに一軒一軒を尋ねてまわった。しかし死人を出したことのない家はなかったのです。疲れ果ててお釈迦さまのもとに戻ったゴータミに、お釈迦さまは 「ゴータミよ、芥子粒はいただけたのか」 と、尋ねました。そして泣き崩れるゴータミに 「どの家も人も同じ悲しみ、苦しみをいだきながら生きているのだ」 と、さとされました。
 ゴータミはお釈迦さまが自分に何を教えようとされたのかがわかった、そして、やっと我が子の死を受け入れることができたのです。

 相手が自己中心的な心の状態では仏法を説いても、自分のこととして仏の教えを受けとめないから、まず他(ゴータミ)を自(お釈迦さま)に同ぜしめて、その後に自(お釈迦さま)をして他(ゴータミ)に同ぜしめられました。お釈迦さまのまわりには自他一如の世界が限りなく広がっていました。こうしたお釈迦さまの説法は45年もの長きにわたるものでした。

おおらかな境地に立って生きていくことができればよいのですが

 慈悲心の発露が利他行ですから、自己中心的な思いが少しでもはたらけば、真の意味での利他行にならないでしょう。道元禅師の教えである、布施 ・ 愛語 ・ 利行 ・ 同事の四摂法 (ししょうぼう)を実践しているうちに、しだいに自分のなかに慈悲心が醸成されていきます。そしてほんまもんの利他行が自然に行えるようになるでしょう。

 自と他のありようは、他を斥けることなく、自らも殺すことなく、限りなく共に生きることを願うことです。そして共々に理想の境地に進むようにしなければいけないと、お釈迦さまは教えられました。

 海はどの河から流れてくるどんな水でも区別することなく、等しくこれを受け入れる、それらの水が集まって大海となる。このように、いつも相手の立場に立ってものを考え、行動することができれば、自他が同じ思いで行動できるはずです。

 他を無条件に利するということは、自分のものが少なくなるのではない、自分も豊かになり、人間的に向上していくことを意味しています。同事行によって利他行の願いがきわまります。自にも違わず、他にも違わぬよう、おおらかな境地に立って生きていくことができればよいのですが。

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